神社訪問記HP北海道日高管内 > 平取町

義経神社 (北海道〈日高〉平取町本町)

参拝日 平成30年8月6日(月)
作成日 令和元年7月28日(日)
追記日2 令和6年4月2日(火)
よみ  よしつね じんじゃ  
所在地  平取町本町119-1
  (北緯42度35分32.51秒 東経142度8分10.65秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  北海道神社庁 神社詳細 義経神社
 Wikipedia:義経神社
 当社HP
祭 神  源九郎判官義經公(みなもとのくろうはんがんよしつねこう)
由 緒  旧 郷社。
 社頭の掲示には次のやうにある。
由緒

創祀年不詳なるも寛政十年近藤重蔵等により此の地の伝説を辿り北辺の鎮護として勧請さる。
明治九年二月 村社に列せらる。
明治十七年八月 小松宮彰仁親王殿下の御台臨の栄によくし祭祀料を下賜さる。
明治三十七年十一月十三日 神饌幣帛供神社に指定さる。
明治四十四年九月十一日 皇太子殿下北海道行啓に際し甘露寺侍従の御代拝を賜わる。
大正九年八月十五日 社殿を造営して遷座する。
大正十一年七月二十二日 摂政宮殿下北海道行啓に際し本多侍従の御代拝を賜わる。
昭和十六年三月二十六日 郷社に列せらる。
昭和二十一年六月十九日 北承第232号を以て宗教法人に承認さる。
昭和三十六年八月十五日 現社殿を造営して遷座す。
昭和四十一年六月二十八日 三笠宮殿下の御台臨を賜わる。
昭和四十八年八月四日 高松宮殿下の御台臨を賜わる。

 wikipediaの文章を引用すると『社伝によれば、義経一行は、むかし蝦夷地白神(現在の福島町)に渡り、西の海岸を北上し、羊蹄山を廻って、日高ピラトリ(現在の平取町)のアイヌ集落に落ち着いたとされ、そこで農耕、舟の製作法、機織りなどを教え、アイヌの民から「ハンガンカムイ」(判官の神ほどの意味か)あるいは「ホンカンカムイ」と慕われたという』(1)

 寛政10年に蝦夷地探検の命を受けた近藤重蔵らが訪れ、翌年、義経の神像を贈った。義経資料館では、次のやうに説明してゐる。
御神像といわれ
義経神社の御神像は、寛政十一年(1799)徳川幕府の勘定吟味役・近藤重蔵が安置しました。御丈一尺八寸ほどの岩に腰をおろした姿勢をした木造の義経像は、目には水晶を入れ要所要所には緊迫を塗り、精巧を極めた甲冑像です。 重蔵が蝦夷地に入り、寛政十年(1798)沙流を通過する時、この地の人たちが刀剣や甲冑を秘蔵し祀っていることを知って「汝等が祀っているものは、源九郎判官義経公のものである。私が次回この地に来る時には必ずその義経公の御神像を持ってきて、汝等に授けよう。」と約束をし、再び蝦夷地を訪れ平取の地に奉祀され、以来この地の人たちの尊崇を受けております。

 神像は、明治九年に社に遷されたあとは公開されてゐなかったが、修理する事となり、平成30年夏公開された(2)。修理後の神像は、弓矢に太刀を携へてをり令和元年7月20日から公開されてゐる(9月1日までの予定)(3)
雑 記  日高本線富川駅から北東へ12kmの所にある。尚、高波被害により平成27年1月8日から列車は運休してゐる。復旧の計画は建ってゐない。
 嘗ては、富川駅(旧称 佐瑠太駅)から平取へは、鉄道があった(沙流鉄道、大正11年開業、昭和26年廃止)。

 新聞記事に神像公開とあったので機会を得て訪れた。
 お祓ひを受けて像を拝見した。像が安置されてから220年になるといふから、傷んでゐて当然。でも細かい細工が窺へる。修理前後を比べるために、といふ事で写真の許可を頂いた。真正面から少しずれて撮ると良いのかも知れないが、下から見上げるやうに写真を1枚撮った。
 白老の「ウポポイ」の事業費200億円の0.1%でも当社の事業に援助できたらいいのにと思ふ。今度、宮司さんに会ったら聞いてみよう。

 ペンリウク「頌徳碑」がある。碑文は次のやう。 (正字は当用の字体に置換へた、変体仮名は元の漢字「里」で表した)
 正三位勲一等男爵佐藤昌人題
故ぺん里うく翁ハ気骨稜々智略ニ富ミ十勝ノ同族ヲ征服シ テ其名遠近ニ轟キ大ニ衆望ヲ聚メ亦良ク地方ノ同族ヲ統制 シ愛撫ヲ加ヘ文字ノ学フヘキヲ説キ学校ヲ設立シテ子弟ノ 修学ヲ勧ム之ヲ土人教育ノ嚆矢トス官乃チ土人ノ事一切ヲ 翁ニ委ネおてな即チ総酋長ヲ以テ之ヲ遇ス翁曽テ判官義経 公ノ神像ヲ此地ニ遷祀シテ其徳ヲ鑑カニス是本村義経神社 ノ濫觴ナリ明治十七年八月故 小松宮彰仁親王殿下本村御 成ノ砌翁ノ住宅ニ御立寄アラセラレ優渥ナル御諚ヲ賜ハル 誠ニ無上ノ栄誉ト謂フヘシ翁明治三十六年十一月二十八日 七十一歳ニシテ病ヲ以テ没ス郷党翁ノ偉業ヲ追慕シ茲ニ碑 <ヲ建テ以テ記念トナシ長ヘニ英魂ヲ慰メント欲ス
  昭和九年七月       平取村長赤根善四郎

「平取油田記念碑」がある。碑文は次のやう。
平取地区は当社最初の発見油田であつて
昭和三十一年七月S.K一號井の成功を端緒
として開発が進められた
S.K一號井は油田のほゞ中央に位置 本記
念碑より方位北一九度西距離七六0米に
ある。
   昭和三十九年五月二十六日建之
         石油資源開発株式会社

 日本の油田といふと、新潟にあるくらいしか知らなかったが、神社巡りをしゐて軽舞(厚真町、豊丘天満宮近く)で油田があったのを知ったし、当地の平取でも油田があったとは思ひもよらなかった。

(R.01.08.16追記)
 令和元年8月7日に特別拝観し、修復後の義経像を拝見した。拝観時にいろいろ伺った。
  • 修復は京都の五条大橋近くの仏具店で修復された。
  • 修復後、函館の図書館で重蔵の木像寄進の10年後に描かれた絵が見つかった。
  • 絵には、弓・矢・太刀が描かれ、修復に誤りが無く、関係者はほっとした。
  • 修復は、木材材質・残った塗料の分析をして、同じ物を用いた。
  • 像の内部には、武蔵国神田の作者名が記されてゐた。
  • 像が神社に遷されるまでの間に、何度も川に流された。下流の住民から届けられたこともあった。そのため、ひどく傷んでゐた。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2


写真3


写真4  ペンリウク「頌徳碑」と御神木(栗)


写真5  修理前の義経像(正面)


写真6  修理前の義経像(背面)
     拡大(1280×1071)




御朱印  142年振り公開時


写真7  修復後の義経像(正面)
     拡大(788×1080)


写真8  修復後の義経像(背面)
     拡大(810×1080)


御朱印  像修復後拝観時

出典・脚注
  1. 令和元年7月19日閲覧 wikipedia 義経神社
  2. 北海道新聞 2018年(平成30年)7月22日号
  3. 北海道新聞 2019年(令和元年)7月28日号

改訂記録
  • 令和06.04.02 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。
  • 令和01.08.16 義経像修理後の像と御朱印、伺ったお話を追記

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)
inserted by FC2 system