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富川神社 (北海道〈日高〉日高町富川東)

参拝日 平成30年8月6日(月)
作成日 令和元年7月28日(日)
追記日 令和6年4月2日(火)
よみ  とみかわ じんじゃ  
所在地  〈日高管内〉日高町富川東2-4-8 (北緯42度30分30.85秒 東経142度2分27.44秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 大神宮社
祭 神  (由緒欄参照)
由 緒  旧 村社
 境内にある掲示には次のやうに記されてゐる。
大神宮(富川神社)
御祭神 天照皇大御神
 合祀 八幡大神 品陀別命
    塩釜大神 武甕槌命
         経津主命
         塩土翁命
安政三年四月仙台藩士族協議の上宮城県塩竈市の塩釜神社より勧請し、白老の郷に奉祀したのち、明治八年六月十五日現在地に遷し明治九年村社に列せらる。(古文書より)

当神社の沿革は遠く安政元年(1854)幕府は鎖國を解きアメリカ、ロシヤ等との和親条約を結び、箱館港などを交易場となすや蝦夷地を直轄地として安政三年(1856)蝦夷地の防備を固めるため仙台藩等にその警備を命ず。守備範囲は白老から、えりも岬を越え國後、択捉までの東蝦夷地であった。
その為、白老に元陣屋を築き、陣屋の守護神として塩釜神社を勧請し祭った。しかし明治元年(1868)戊辰戦争の勃発によって警備は撤収された。明治三年(1870)諸藩分領制度施かれるや、仙台藩三好長五郎清篤等、この地に移住、先人が祀ってあった白老より明治八年六月十五日心のよりどころとしてこの地へ遷し祀った。
雑 記  日高本線富川駅から東南東へ2.0kmのところにある。(日高本線は高波被害のため鵡川以西は運休中。富川駅も代行バスが通ってゐる)

 社名は「大神宮社」が正式で、通称は富川神社。社頭の社号標には富川神社、拝殿の扁額は大神宮社とある。他に「富川神社 百年記念」碑(昭和五十一年九月二十日奉納)もある。
 境内社には稲荷社、地神塔では、四角柱の地神塔(大正十三年三月二十日建立))、大木(御神木?)根元に「山之神」碑があった。記念碑では、「村社五十年 記念碑」(大正十四年九月十五日建立)があった。
 鳥居は、昭和三十四年六月 株式会社岩倉組 の奉納。岩倉組は苫小牧市に本拠があり、アイスホッケーチームでなじみがあったが昭和54年に休部したときは、驚きだった(雪印乳業に引継がれたが平成12年廃部、現在は札幌ホッケークラブとして活動)。

 白老の塩釜神社社頭に設置の白老町による案内板には「塩竈神社」としてゐるのは、当地に遷ったからなのだらうか。

 平成18年に門別町と日高町が合併し現日高町となった。当社は元の門別町域に位置してゐる。
 門別町は、明治42年に門別村、佐瑠太村(さりふと)、平賀村(びらが)、富仁家村(とにか)、慶能舞村(けのまい)、波恵村(はえ)、菜実村(なみ)、厚別村、賀張村(がばり)を合併して、新たな門別村が成立してゐる。
 門別(日高町)・紋別市(オホーツク管内)と同じ発音のため、日高門別(駅名は日高門別駅)と称して区別してゐるが、他に伊達紋別駅(伊達市内の駅名、地名紋鼈(もんべつ)由来)もあり注意が必要。日高町役場のある門別本町は当社から南東へ4.5kmほどの所。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2


写真3


写真4


写真5

出典・脚注

改訂記録
  • 令和06.04.02 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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