由 緒
北海道神社庁誌(平成11年)には次の様に載つてゐる(1)。
由緒 明治二十五年四月に、佐賀県人が入植、明治二十七年、岡田抓鹿(*)が農場を開く。岡田も福岡出身であり、他の小作人も九州の人がいたので大宰府天満宮を祀つたと推測される。明治三十五年に地区の中心部に移設造営される。昭和六十年九月二日、地区住民一丸となり、社殿造営を成しとげる。(神社境内付近には、厚真の米作の発祥の碑がある。)
(*) 豊丘開基百二十年記念誌(平成二十五年)p.17 には「岡田孤鹿」とある。岡田孤鹿(ころく)は、柳河藩士、政治家・衆議院議員、政界を離れた厚真村に移住した(2)(3)。
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| 雑 記
| 苫小牧駅から西へ29km、厚真町役場から南南東へ5.5kmの所にある。
道路を挟んだ向ひに碑がある。碑文は次のやう。
開基百年
碑文
明治二十五年四月小坂伊次郎外十数名がこの地に無願入地し厚別産の赤毛の種籾で水稲の試作をしたのが豊丘開拓の始りであり またこれが厚真の米作の発祥でもある
明治二十七年岡田孤鹿(2)(3)がこの地一帯の払下げを受け農場を開き 同二十九年 小作者三戸の入地を期に入地者は増加しつづけ さらに開墾がすすめられて集落が形成されるに至った
先駆者はうっ蒼と生い茂る原始林を切り拓き厳しい労働と飢えと寒さに遭遇した その開拓の苦労は想像を絶するものであった 辛苦に耐え逞しい開拓精神をもって豊丘発展の礎を築かれたこの先人の偉業に対しては あらためて深い感謝と敬意の念を持つものである
その後の後継先輩の幾多の苦難とのたたかいと様々な変遷を経て私たちが稔り豊かなふる郷を安住の地とできるまでの発展を見るに至ったのである
ここに開基百年の大きな節目を祝い先人の尊い遺徳を偲び遺訓を後世に伝えさらに二十一世紀における飛躍的な発展の願いを込めて地域住民の総意により記念碑を建立する
平成六年十一月吉日
豊丘自治会
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手水鉢は、写真のものとは別に「野安部 氏子 一同」と刻まれた何十年か経たと思へるものがある。年記は見えなかった。「野安部(のやすべ)」は豊丘の旧名で当社の南を西流する「野安部川」に名を留めてゐる。(上野安部太→上野、下野安部太→冨野の新旧変更もあった。)
石段を登ったところに二の鳥居がある。
軽舞から当地にかけて石油が産出する。商業生産されて軽舞油田は昭和31年に閉山した。いまも地表に原油がしみ出てゐるところがあるといふ(北海道新聞 苫日版 H29.8.22)。
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