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崎守神社 (北海道〈胆振〉室蘭市崎守)

作成日 令和元年12月9日
よみ  さきもりじんじゃ 地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
(東西 1.13 km×南北 0.94 km)
参拝日  平成30年9月4日(火)
所在地 〈胆振管内〉室蘭市崎守町187番地 (北緯42度22分28.67秒 東経140度55分12.33秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 崎守神社
祭神  保食神(うけもちのかみ)
由緒  元 郷社
 明治神社誌料(1)には次のやうに載ってゐる。
北海道胆振国室蘭郡元室蘭村元室蘭 郷社 崎守(サキモリノ)神社
祭神 保食神
創立年月詳ならず、但古来是の地の鎮守として、奉斎する所にして明治八年郷社に列す、北海道誌に「崎守神社室蘭郡室蘭村ニ在リ、郷社、祭神保食神」と見えたり、社殿は一宇、境内四十八坪あり。
例祭日 九月九日

 北海道神社庁誌(2)には次のやうに載ってゐる。
由緒 弘化元年(1844)ムロラン会所を為し居りし岡田半兵衛の創立と伝承されているが、創立年月日不詳。明治八年九月郷社と公称。昭和二十一年宗教法人設立。

 ふるさと室蘭ガイドブック(3)には次のやうに載ってゐる。
室蘭発祥の地、崎守町の鎮守である崎守神社は、今から170年ほど前の天保10年(1839)ころに建てられ、市内最古とされています。しかし、一方では、嘉永2年(1849)という説もあり、これが正しいとすると、弘化元年(1844)に建てられた絵鞆神社が市内最古になります。いずれにしても、当時のムロラン(現在の崎守町)は、東蝦夷地の交通の要路として、この地方最大の集落を形成し、多くの人たちの心のよりどころだったのでしょう。
崎守とは防人(さきもり=都から遠く離れた土地を守る)と同じ意味で、南部陣屋の出張台場がこの地にあった明治元年(1868)のころから崎守神社と呼ばれていたようです。
雑記  社殿に向つて右手に史跡の案内板があり、次のやうに記されてゐる。
史跡 東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡 台場・勤番所跡

外国船が多く来訪した幕末、江戸幕府は北海道からサハリンの沿岸警備を東北地方の諸藩に命じました。
現在の岩手県盛岡にあった南部藩は、函館から幌別を担当し、この天然の良港を望むペケレオタ(白い・砂浜の意、市内神社町)に、安政三年(1856)出張陣屋と台場を築きました。
そのほか、ここポロシレト(親である・岬の意)と、絵鞆に台場・勤番所、また追直・鷲別に遠見番所を設置し、慶応四年(1868、明治元年)まで警備にあたりました。
ペケレオタの出張陣屋は、幕末の北方警備をよく示すものとして、昭和九年五月一日に国の史跡指定を受け、昭和49年九月二十二日には、ここポシレトの台場・勤番所跡と、同じく南部藩により噴火湾沿岸に築かれた長万部・砂原の屯所跡が追加指定され、現在に至っています。
<史跡指定範囲図>(図は転記略)

転記者註  追直:おいなおし。湾を形成してゐる絵鞆半島の太平洋側には追直漁港がある。

 公が立てた説明板と思ふが、日付と共に記述はない(裏面は見忘れた)。
 幕府が「サハリンの沿岸警護」をも命じたとあるが、ロシア領域まで警護するわけが無い。当時は日本領として「からふと」等と呼んでゐた。1600年代には「からふと」等の呼称があり、明治になり「樺太」の漢字が定められたといふ。ロシア語では「サハリン」で中国名は「庫頁島」またはロシア語の音訳が使はれるといふ。

 石造物には次の物があった。
 ・山神(地神塔)
 ・手水石 平成十三年十月寄贈
 ・狛犬(狐) 大正六年
 ・燈籠 大正六年七月建之
 ・「史跡 東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡 台場勤番所跡」碑 建設 平成二十六年九月に十九日 文部科学省 室蘭市 (東参道入口付近にある)

 旅行三日目、苫小牧を発ち、登別神社参拝後、9時20分頃、当社着。
 計画は、刈田神社・室蘭八幡宮を参拝後に当社に来ることとしてゐたが、台風が来るといふので変更した。函館護国神社・函館八幡宮は是非参拝したいので、函館での天気が大きく崩れないうちに着きたかった。登別から函館までは、200km余もある。仕方なく、二社の参拝を止めた。おかげで、1時間15分早く着いた。
 当社への道は、急坂、すれ違ひの出来ない細道。カーナビの設定が少しずれたのか違う所へ行ってしまひ、一旦、坂を下りた程で、判りづらかった。要は、当社の東側入口を通り過ぎてゐたのだつた。

 先づ、参道を鳥居のところまで降りて行く。途中に「砲台跡」がある。見た目には平に整地されてゐるが遺物は見えない。砲は二門あったといふ。
 登って行くと、二の鳥居があり、狛犬が二対ある。一対は犬(獅子)、一対は狐。石肌の新しい手水鉢とその先に「山神」の地神塔があり、その前には供へ物を置くためと思はれる石製の台がこしらへてある。手水鉢と同時期にこしらへたのだらうか。
 鳥居の向うには拝殿が見える。トタン屋根で飾り気のない建物だ。その分、中は広い。拝殿の脇に回つてみると、御本殿があつた。立派な物で、彫刻も施されてゐる。
 御本殿の先の土地は一段高く、平になつてゐる。社殿に向ひ右手にある案内板を読むと勤番所跡だと云ふ。階段が付けられてゐるわけでもなく、立入つては良くなささうなので眺めるだけにしたが、礎石など遺物の存在は目に付かなかつた。
 嘗ては室蘭の中心地と云はれなければ、現市街地に比べると住む人も稀な地に公称とは云へ郷社だったとは信じがたかつた。
 20分ほどの滞在で、次の八雲神社へ向つた。99kmある。 

写真

参道入口

砲台跡、参道を登って行くと右手にある

拝殿他、狛犬は獅子と狐が各々一対ある

社殿(拝殿と御本殿)

御本殿、御本殿向拝の彫刻(148kB)

勤番所跡(御本殿の後ろ)

脚注
  1. 『府県郷社明治神社誌料』 明治四十五年刊 明治神社誌料編纂所編 上巻 北海道郷社之部 p.19・20
  2. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.608
  3. 『ふるさと室蘭ガイドブック』 室蘭市総務部広報課編集 平成28年12月(改訂版) p.56


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