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糸井山神社 (北海道苫小牧市宮の森町)

参拝日 平成30年4月21日(土)
作成日 令和元年6月11日(火)
追記日 令和6年4月6日(土)
よみ  いといやま じんじゃ  
所在地  苫小牧市宮の森町1丁目4 (北緯42度37分52.69秒 東経141度31分42.32秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  ─
祭 神  八幡神
由 緒  神社本庁包括外神社
 苫小牧市史には次のやうにある(1)
 糸井には小魚糸川の上流にある小山に山の神社、国道沿いに海の神社がある。
 山の方の神社は小魚糸川が沢となって入ってゆく手前の小山にあるが、この小山は河川作用によってできたものと思われ、高さ20メートルほどで神社はこの山頂にある。この小山の奥にはユータウンとして知られる宮の森団地があり、苫小牧としては変った地形である。
 大正末期に建立され、祭神は八幡様で六月十五日が祭日となっている。
雑 記  室蘭本線糸井駅から北西へ1.9km、海岸まで2.1kmの所にある。

 当地は平成7年に住居表示が実施されてゐる。多分、それ以前は字糸井の一部だったと思はれる(平成11年刊の北海道神社庁誌には字糸井とある(2))。なほ、苫小牧市は、明治35年に、西から樽前村(たるまえ)、覚生村(おぼっぷ)、錦多峰村(にしたっぷ)、小糸魚村(こいとい)、苫小牧村、勇払村、北の植苗村が合併して苫小牧村となり、後に町制、市制をしいてゐる。

 由緒欄に引用した文章に「小糸魚川上流にある」とあるが、「小泉の沢川」が正しい。
 現在の地図では小泉の沢川とその支川が当社近くを南流し、海に注いでゐる。小糸魚川は、当社の西1.5kmほどの所を南流し海に注いでゐる。昭和36年の空中写真をみると、小泉の沢川は海岸近くまで南流したのち海岸から100m程の所を西に流れ小糸魚川に合流しててゐる。ところが、昭和50年の写真を見ると西へ流れてゐるものの小糸魚川まで届かず海に河口をつくってゐる。
 苫小牧川と有珠川が海岸近くで東西の流れを作り、トマコマイの語源となった沼をいくつも形成しながらつながってゐたのと似た現象があったやうだ。

 狛犬の台座には次の文章が刻まれてゐる。
奉納
大正四年父簗瀬丑松は青森県三戸郡字島守より北海道に渡道 昭和元年二月苫小牧糸井移住 直に糸井山神社の世話係を終始御つかえ致し今日に至る。
昭和五十二年六月謹建

 山の下の境内に「越止居之碑」があり裏面には次のやうに刻まれてゐる。
由来

 安政三年(1856)幕府の命により榊原_蔵・市川十郎は蝦夷地を調査し野作(エゾ)東部日誌にこの地のことを次のように筆記している
「越止居(コエトヰ) 辺津別(ヘツヘツ)ヨリ二里二十二丁「コエ」ハ波ノ夷語「トヰ」ハ切ルト云義 此所波荒ク打寄テ切ルト云意也 同名多シ 総テ海辺曠野也 此辺ヨリ小高キ道ヲ行々望ムニ 山脉悉ク分レテ北ノ方ハ見渡スカキリ曠野也 凡二三十里ノ間カクノ如シトソ」
 よってこの地誌の一節をこの碑に刻み 遠き先達の偉業を偲びつつ 長く後世に伝えようとするものである

平成五年秋建立
  小糸魚開拓記念事業期成会
 釧路の「恋問」や稚内の「声問」も同じ語源(3)と云ふ。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  この時期、芽吹きは未だ


写真2  鳥居は昭和52年七月奉納、社号標は昭和五十三年六月建立


写真5  階段は平成十八年六月に糸井山神社奉賛会による改修


写真3  社前には、木に結びつけられた おみくじ が白く写ってゐる。


写真4  社殿後方から撮影


出典・脚注
  1. 『苫小牧市史 下巻』昭和51年刊 p.1819
  2. 『北海道神社庁誌』平成11年3月刊 北海道神社庁 p.1116
  3. 令和元年6月9日閲覧 Bojan International「アイヌ語地名の傾向と対策 (109) 「苫小牧・小糸魚・錦多峰」

改訂記録
  • 令和06.04.06 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。
  • 令和01.07.13 脚注を追記(非表示タグの削除忘れ)。

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