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石狩大橋水天宮 (北海道〈石狩〉江別市緑町)

参拝日 平成30年11月3日(金)
作成日 令和2年2月29日(土)
追記日 令和6年3月26日(火)
よみ  いしかりおおはし すいてんぐう  
所在地 〈石狩管内〉江別市緑町東3丁目83 (43度7分17.45秒 141度32分31.81秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  ─
祭 神  不詳
由 緒  神社庁包括外神社
 北海道神社庁誌には次のやうに記されてゐる(1)
所在地  江別市緑町東三丁目
例祭日  七月第一日曜日
交通機関 略
神職   一、奉仕者 内田 悟
 神職は、江別神社の宮司。
雑 記  函館本線江別駅から北西へ1.7km、石狩川に架かる石狩大橋の左岸側袂辺りにある。

 狛犬一対があり、「新築記念 昭和五年七月五日建立 部落一同」とある。
 当地は屯田兵の入地した屯田兵村だった。「部落」となると、土地の譲渡が可能になったり、制度が廃止された明治三十七年以降にやってきた人達が部落を形成したのだと思はれる。
 昭和10年の地図には神社記号があり、大正四年の地図には無い。地図記号の無かったころは、棒杭神社や、極小さな祠だったのかも知れない。実際の事を知りたいものだ。
 他に、灯籠一対、手水鉢がある。

 なほ、石狩大橋は、大正九年に完成してゐる。
 また、かつてこの辺りには小川が流入してゐた。以前(昭和30年代の記憶)、小川が、野幌の線路と12号線の間の地から北東の弥生町・一番町を経て北西へ向きを変へ飛鳥山の西側を通って大橋の辺りで石狩川に注いでゐた。当社と関係あるか無いか判らないが、水にまつわることとして記した。(今は、野幌から弥生町の辺りの小川は、水田と共に埋められて住宅地になってゐる)。

 札幌うぉーく点描の2017年の記事(2)によると、「水天宮は水難者の供養のために」建立した、「水天宮の裏手に出ると細長い一面の草地になっていて、『モショッケ公園』の標識が立っている。ここは、元々、野幌駅近くに水源のあった「モショッケシュマナイ川」の流路跡で、「四季のみち」につながってゐる、といふ。
 水難からの連想だが、かつて江別港があった。水天宮の位置とは1.5kmほど離れた、千歳川(旧称江別川)の石狩川合流地点と鉄橋の間辺りにあった。明治17年から札沼線が開通した昭和10年までは外輪船が運行され、江別駅(明治15年開業)とは江別川線(人力軌道、明治38年開業、昭和20年廃止)で結ばれ、倉庫群があり鉄道と水運の中継地だった。江別川右岸側には石狩川線(人力軌道、明治38年開業、昭和2年廃止)があった。(3)(4)(5)

 この後は、南へ6.6kmの野幌神社へ向った。道程は8km。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  六段の階段を降りて境内に入る。大橋につながる道路は堤防の上を通るため当社前の路地も連れて高い位置にある。

写真2  鳥居は、「奉納 緑町第一自治会 会長 青木厚憲 竣工 昭和四拾四年七月吉日」とある


写真3


写真4


写真5


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.808
  2. 令和2年2月29日閲覧 「札幌うぉーく点描」の2017年09月15日記事 飛鳥山公園から水天宮とモショッケ公園
  3. 江別太小学校 もう一つの歴史 港として栄えた街
  4. 北海道開発局 札幌開発建設部 開拓初期-交通1【札幌開発建設部】治水100年
  5. 『日本鉄道旅行地図1号 北海道』 (株)新潮社 平成20年

改訂記録
  • 令和06.03.26 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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