由 緒
元 村社
北海道神社庁誌には次のやうにある(1)。
由緒 明治二十三年五月北越植民社の移民518名が新潟県より入植し、翌二十四年入植地の中央に位置する現在地を神社地と定め、神標を建て「降神の地」と記し、御祭神として天照皇大神を始め大国主神、郷土新潟の産土神伊夜日子大神を奉祀し、北越植民社社長関矢孫左衛門が斎主となり、郷土の鎮守神社「野幌神社」として神護を祈る。明治二十八年四月本殿・拝殿を建設、明治三十年野幌神社創立願を提出し、明治三十五年無格社「野幌神社」に指定される。明治三十二年社務所、明治三十六年神楽殿建設、昭和三年現社殿竣工。昭和四年十月二十五日村社に列せられる。昭和二十七年宗教法人登記、平成元年御鎮座百年記念奉祝祭を斎行。
境内外摂末社 社日神社 天地五神、文教台神社 天照皇大神
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昭和38年脱稿の『江別市史』(2)には、野幌神社についても記されてゐる。冒頭三分の一ほどには次のやうにある。
明治二十三年四月、植民社社員三島憶二郎、関矢孫左ヱ門、笠原文平、平沢政栄門、大橋順一郎ら相会して『人民ノ帰向ヲ定メ幸福安寧ヲ祈ルベク』部落に神社を設けることに決定、『天照皇大神ハ大日本帝国ヲ主宰シ給フナレバ尊崇スベシ、弥彦大神ハ越後国ノ宮ニシテ越後人創始スル部落之ヲ奉斎スルハ其本ニ報ひ終ヲ全フスル處也』として上記の三柱を祭祀するため、ここに神社を創始したのであった。
その位置は移住当時区割された百二十番地を選定現在の神社敷地となしたもので、部落の中央でもあり一般の参詣するのに便利な処である。境内地域は九反一畝二十歩、外に二十歳四町三反八歩で植民社からの寄付であった。畑は小作料を徴収して植民社にこれを積立て、神社の永続維持管理資金とすることなども決定したのであった。
その翌二十四年八月二十五日、この地に神標「降神之処」と記して建立、関矢社長が祭文を奉じて神事を行った。以来四月二十五日開村祝日を春祭に、八月十五日を秋祭となした。しかし、八月十五日は農事が多忙の頃なので毎年九月一日に更めたのであった。
(以下略)
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尚、現在の社地は2050坪(=0.68ha)
| 雑 記
| 函館本線野幌駅から南南東ヘ3.5km、江別駅から南ヘ5.3kmの所にある。
鉄道に沿って(もしくは国道に沿って)市街地となってゐる。その市街だけが野幌と思ってゐたが、大間違ひと知った。ここには農地が広がってゐる。
石造物がいくつもある。社地の境界が判らないので境外にあるものも在るかも知れないが紹介する。
(1)「開村五十年記念」碑
開村五十年記念
野幌開村五十年記念碑 昭和十四年六月三十日
明治十九年一月大橋一蔵三島億次郎関矢孫左衛門岸宇吉笠原格一氏等相諮リ北越植民社ヲ創立シ石狩河岸ニ十七戸ヲ移シ同年秋丘陵地三百七万坪原野ニ百万坪ノ貸下ヲ受ケ前地ヲ一戸五町歩ニ百戸分ニ区画シ移民招来ニ着手セシニ二十二年二月事業担当大橋氏東京ニ於テ急逝シ事業挫折ノ危機ニ瀕ス是ニ於テカ関矢氏来道社長トナリ万般ノ経営ニ当リ大ニ郷里ニ於テ移民募集ニ努ム来リ応スル者百十五戸ニ及フ二十三年四月一同新潟白山神社二参詣シ県令ノ壮行辞ニ勇躍渡道シ五月此地ニ到着茲ニ前移住者二十戸ヲ加ヘ百三十五戸ノ北越農民団体部落成立ス之レ実ニ本村ノ濫觴ニシテ当時四隣鬱蒼タル森林ニ囲マレ寂寂極マリナシ爾後社員村民輔車相依リ鋭意開墾ニ従ヒ美田良圃年ト共ニ成リ村勢愈々隆盛今ヤ三百七戸二千九十五人田百九町三反畑千百九十四町七反ヲ有スルニ至ル寔ニ盛ナル哉顧ルニ開村以来茲ニ五十年其間波乱曲折幾多ノ辛酸ニ遭遇セルモ社長其人ヲ得村民常ニ和衷協同惇厚俗ヲナシ質素勤勉以テ今日ノ□ヲ済セリ之レ実ニ父祖伝来ノ質実剛健堅忍不抜ナル北越ノ種子ハ遠ク北海ノ野ニ於テ枝葉繁茂シ遂ニ豊満ナル美果ヲ結ヘルモノト謂フヘシ
北海道帝国大学教授正四位勲二等農学博士 伊藤誠哉撰 併題額
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(2)「野幌開基百年」碑
野幌開基百年 江別市長 岡秀雄
野幌開基百年記念碑撰文
私たちの村は明治二十三年五月新潟県より北越植民社の開拓移民によって野幌千古の森に斧が入れられ丈余の草繁るこの原野に鍬が打ち下された。この間打ち続く冷水害を克服し幾多の社会的経済的変動の中に在って村民は良く協力一致して村勢の発展に努めここに開基百年を迎えるに至ったことは誠に感慨深いものがある。今顧みますと開拓よりの五十年は植民社の指導による営農基盤確立の時代であり以後五十年はこの基盤の上に立つ自主発展の期間と言える。この間に不幸な第二次世界大戦の勃発による国家総動員体制の強化によって国民は上げて戦役に出動或は銃後に在って艱難辛苦の生活を体験し昭和二十年八月大戦の終焉により国内体制の大変革が行われた。農地改革は本村に於いても伝統ある北越植民者の農場体制を解消して耕作農民は総て自作農となった。現在農地は農民の代表機関として設置された農業委員会によって管理されている。農村経済の組織団体も農業会の解散によって農業協同組合へ発展統合され経済面の指導的役割を果たしている。又村の自治組織としては野幌部落連合会に統一結集され昭和四十年自治会に改組し村民の総意を束ね各種の事業を推進している。昭和三十四年以降東野幌の国有未開原野四百余haに開拓第二次入植として三十有余名の新規入植者が入った。戦後は食糧増産の国策に基づき客土暗渠排水事業を進めるため多くの期成会が設置された外造田のため土地改良区や揚水組合によって水稲への大転換が計られ漸くその成果が上りつつあるとき今度は食糧の過剰による抑制政策により再び畑作への転換を余儀なくされている。この間に相次ぐ北方農業の宿命とも言うべき冷害と度重なる大水害による甚大な被害も克服し今高度の集約農業を目指して懸命の努力を続けている。またこの地に入植の翌年日々苦しい生活の中にあつて子弟教育への願い熱く瑞雲寺に寺子屋式教育場を開設し以来人作りにかける情熱を脈々と受け継ぎ幾多の人材を世に送ってきた。開拓当時の野幌は駅より南一円を区域としていたが市街地周辺では土地区画整理組合による宅地造成が進み新しい街並みが次々と誕生している。本村北部を横断する道央自動車道路の開通によって今では市街地と農村に分断された形となっている。然し以南地区にも道立総合運動公園が設置され江別市の新産業都市構想と相俟って純農村風景も徐々にではあるが都市化の方向に変貌しようとしている。私たちは野幌森林公園を背景としたこの素晴らしい環境を維持しつつ発展する構想に取り組んでいる。然し今後は農業とのバランスの中で課題となってくることであろう。我々はこうした中に在って開拓の始祖関矢孫左エ門翁の提唱された至誠勤労分度推譲の報徳誠心と天地の恩恵に感謝することを「村是」とした
教訓に則り新たな時代の発展に寄与すべきまことを銘記してここに開基百年記念碑を建立するものである。
平成元年七月吉日 野幌開基百年記念事業協賛会
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(3)『石詞之記』は、三島億次郎を祀った石祠について記してゐる。
石詞之記
翁ハ諱ヲ心億字を億次郎ト称ス越後ノ国古志郡長岡ノ人伊丹家ニ生ル出ニテ川嶋氏ヲ嗣キ後ニ三嶋ト改ム父ヲ億兵衛母ハ川嶋氏ナリ少ニシテ学ヲ好ミ武ヲ講シ長シテ藩主ニ扈従ス
維新ノ始一藩流離スルヤ業ヲ授ケ学ヲ興シ克ク人心ヲ安ンス
常ニ人ニ説クニ北海道拓殖ノ事ヲ以テス明治十七年渡航周遊シ此ノ地ヲ跋渉ス十九年北海道植民社ヲ創シ二十三年四月県民一百余戸男女五百人ヲ募リ野幌ニ移シ樹ヲ斫り道ヲ通シ水ヲ排シ屋ヲ結ヒ地ヲ墾シ種ヲ播キ耕耘ス無人ノ境ハ変シテ笑語相聞ク学ヲ督シ蒙ヲ訓シ鋭意力ヲ尽ス事年一周ヲ踰ス移民頻リニ臻ル身ハ沍寒瘴癘ニ煩ヒ罹病シテ帰国ス朝廷特旨ヲ以テ従六位ニ叙ス天年ヲ仮ス二十五年三月二十五日卒ス享年六十八先塋ノ側ニ葬ス里人相議リ義捐シテ石祠ヲ村社ノ境内ニ建テ春秋祭祀シテ其ノ恩ニ酬ヒ以テ其ノ業ノ墜サラン事ヲ祈ル茲ニ事績ヲ記シテ後昆ニ垂ル 明治三十一年四月 従七位 関矢忠靖撰文
(碑背)
沿革
三嶋翁ハ北越植民社創立ノ初ヨリ其ノ事ニ尽力セラレ廿三年本社ニ越年シ老漢隆寒病ニ罹リ翌年国ニ帰リ同二十五年三月二十五日卒享年六十八歳翁野幌開拓ニ従事セラルル尤モ之ヲ勧メタルヲ以テ古志ヨリ移住セル人ニ土田金蔵首唱本社始メ人々醵金シ石祠ヲ建ツ後世其ノ恩恵ニ酬ント欲ス也
建碑者 (二十七名氏名 略)
昭和十四年十一月建設
参考 扈従:こしょう、貴人につき従うこと
踰 :こす、こえる
臻 :至る、集る、やってくる
先塋:せんえい、先祖の墓
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石祠は石製台の上にあり、三嶋翁石祠詞として文字が刻まれてゐるが彫りが浅く判読しづらい。
鳥居、灯籠一対、手水鉢を備へてゐる。
(4)玉乃花 引退記念 の灯籠がある。相撲取りのやうだ。昭和五十九年に改修されてゐる。
(5)祭神名(三柱)を刻んだ石柱。祭日のほか「明治二十三年四月二十五日鎮座、昭和三十年九月一日建設 奉納 創業六十六年記念 新潟県南蒲原郡井土巻村出身 故荻野桐平 嗣子荻野田作」と刻まれてゐる。
(6)手水鉢 大正五年四月二十五日奉納。札幌軟石製とみられる。
(7)野幌開基七十年 記念館。煉瓦製の小さな建物。何が入ってゐるのだらう。(奉安殿と言われても納得の風情)
(8)「推譲百年」の碑 野幌報徳会は明治四十四年四月に創立された。で始る碑文がある。営農指導を主にして後、社団法人化したといふ。平成二十一年六月三十日の年記がある。
(9)「江別市立 野幌中学校旧校舎跡」の碑 江別市長山田利雄書 昭和五十五年五月建之。昭和24年に志文別小学校跡地に新校舎建設して移転してきて、現在は北へ1.3kmの地に移ってゐる。
次に訪れたのは、本日四社目で、大麻神社。道程で7.8km、方角は西北西、距離は5.0km。
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