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大麻神社 (北海道〈石狩〉江別市大麻)

参拝日 平成30年11月3日(金)
作成日 令和2年3月7日(土)
追記日 令和6年3月26日(火)
よみ  おおあさ じんじゃ  
所在地 〈石狩管内〉江別市大麻宮町3-2 (43度4分38.35秒 141度29分25.30秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 大麻神社
・当社 HP(錦山天満宮サイト内)
祭 神  天照大神   あまてらすおおみかみ
 稲倉魂命   うがのみたまのみこと
 少名彦名命  すくなひこなのみこと
 大己貴命   おおなむちのみこと
 埴安姫命   はにやすひめのみこと
由 緒  拝殿内に掲げられてゐる「大麻神社史略記」には次のやうに記されてゐる。
 明治三十三年麻畑に居住の福屋角助が宅地に「八百萬神」の木碑を建て祭りを行なっていた。その頃大曲の平本与三吉の宅地にも小祠を建立し祭祀した。その後西野幌製糖会社の地に小祠を建立し十二錦山神社として開拓者のよりどころとした。
 大正八年麻畑実業青年会が明治四十三年から借りていた現在地に社殿を御造営しそれぞれ木碑小祠を合祀し大麻神社と呼称したのが大麻神社の創立となっています。
 道の大麻団地造成に伴い大麻地域の神社として入居された人達も参加し、一段と賑やかな祭典を行なって来ている。
 昭和五十一年総代並に崇敬者で御社殿造営奉賛会を結成し五十二年五月着工、同年九月十日落成した。同年九月
 上記webサイトによると、「この3つの神社に、大正八年他地区にもあった小祠の2柱を合祀」してゐる。

 昭和38年脱稿の『江別市史』(1)には、つぎのやうに記載されてゐる。 
 大麻が、まだ麻畑・大曲といった明治三十八年頃、「八百萬之神」と書いた六寸角、高さ六尺程度の木標を永井幸三郎、遠田伝次郎等によって十六丁目に建立されたのが、神社創立前におけるこの部落の神祭りの始めとされている。
 その後、大正八年頃になって、大曲部落の上野菊次郎、鳴道某らとともに、大曲部落からその頃の麻畑部落(現在大麻)に移したものであった。
 この時の話によれば、麻畑と大曲との神社祭祀には、よく内部的な問題が起るので、大曲の平本与三吉と麻畑の中田幸太郎との話合いから合祀の儀が酒席の上で決められたといわれる。
 その当時には本殿が大曲に、奉置所が麻畑に在ったことなどから両部落合同して、麻畑に神社創建のことに決定して当時の青年会がこの事業に当った。中田幸太郎、伊藤三代治等が中心となった。
  祭神天照大神(札幌神社の分神として奉じた)
   弥彦命(元野幌分神)
  祭礼日 毎年九月二十四日
 この神社の司祭は元野幌屯田兵村出身遠田伝次郎が当っていたが、後江別神社内田宮司によって行われている。
 なお、大麻神社と改称されたのは字名改正の昭和十四年である。
雑 記  函館本線大麻駅(昭和41年開業)から北西へ0.8kmのところにある。

 神社巡り二日目の四社目。当社の次は、錦山天満宮で道程 3.5km。
 当社の由緒は、江別市史の記述とちょっとした齟齬があるようだ。登場人物が全く異なるのも興味深い。


 開村記念碑が、参道右手(南東側)の木々の中に見上げる大きさで建ってゐる。記されてゐるのは次のよう。
 大麻は野幌兵村の給與地にして人跡未踏の原始林なりしも明治二十四年上野與四郎等数戸はじめて大曲の地に開拓の鍬を下せしを以て起源となす麻畑は二十六年福屋⻆助農を志し次で月田弥三郎等入地す爾後伊藤三代吉等水稲試作の成功により入植者増加し漸く村落を成すに至り平本與三吉部落総代となり部落自治の基を成す樹林地は兵村薪炭備林として存置保護されしが伐採後三十八年小作制度により鈴木寅十郎等が開墾せしに始まる日清日露の戰役は共にその開拓を促進し農村の基板を確立するを得三十九年二級町村制施行当時江別村字大曲麻畑樹林地と称されしも昭和十年字名改正により統一して大麻と称すに至る
 服屋⻆助等子弟のヘ育を憂慮し相計りて三十一年施設ヘ育所を創始し次で三十四年公立麻畑簡易ヘ育所の開設となり爾来先陣の努力よく今日の充実せるヘ育施設を成すに至る大正八年神社の合祀と十一年青年倶楽部の建設を実現して精神文化の基調とし村民相協力して民風の振作に努むその後上野孝義中田幸太郎等十余年に亘る献身的努力により昭和十四年全部落の兵村公有地は開放され待望の自作農となることを得十九年遂に農村電化を実現し村勢はここに一大躍進をみるに至る先人の業績また偉大なりというべきなり
 戦後国家再建に精進し郷土は開拓地を加え七十六戸田畑四百七十余町乳牛二百頭を算え各その業に安んじ開村七十年を記念しここに開拓先人の功績を称え事績を顯して碑となす
   昭和三十五年九月  元石狩支庁 熊本吾七撰並びに書
 碑背には、現住者 76名の氏名、石材店名
 又、2000年改修とある
 碑で用いられてゐる字体を使用した。年輩者には新字体は浸透しきってゐなかったんだな、手書用の略字との意識かもしれない。
  與(与)、⻆(角)、戰(戦)、ヘ(教)、顯(顕)

 「大麻開基百年」碑が、社殿に向って左、(隣の大麻元町自治会館の敷地内かもしれない)にある。
碑文
 大麻は、もと肥沃な農地なりしが、北海道知事の要請に応え、昭和三十八年父祖伝来の地を、住宅用地として道に供したり。
 ここに、人跡未踏の大地を開拓した先人の遺徳を偲び、碑を建立し感謝の誠を捧げる。
 平成二年九月二十四日建立
 (続けて、九十名の氏名が刻まれてゐる。)

ほかに石像物等にはつぎのものがあった。
  • 灯籠一対 「金婚式記念 福屋⻆助 仝スミ 昭和十一年九月建之 明治二十四年山口県ヨリ渡道 明治二十六年麻畑ニ入地ス」とある。
  • 狛犬一対 「入植百年記念 奉納者 福屋サカ 福屋角助 スミ 福屋百樹 タミ 福屋光博 信子 1992年4月吉日」とある。渡道された一世は勿論、二世も故人になられた頃かもしれない。気持が伝わるきがする。
  • 「大麻神社史略記」の碑がある。御祭神の名とともに記されてゐるが、概ね拝殿内の掲示と同文だった。碑背の確認もれで建立年、奉納者不詳。
  • 大麻馬頭観音堂 馬頭観世音菩薩三体があり、大正三年に無くなった愛馬の供養のため翌年建立したのに始り、お堂は昭和五十二年に新築され四月に牛馬の供養をしてきてゐるといふ。
  • 手水鉢 冬囲で判らなかった。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2


写真3


写真4


写真5  「大麻開基百年」碑と社殿


出典・脚注
  1. 『江別市史 下巻』昭和45年3月 渡辺茂編 p.652  (尚、昭和38年には脱稿してゐたが冷水害のために発行が遅れたとのこと)

改訂記録
  • 令和06.03.26 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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