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江別神社 (北海道〈石狩〉江別市萩ヶ岡)

参拝日 平成30年11月3日(金)
作成日 令和2年3月22日(日)
追記日 令和6年3月25日(月)
よみ  えべつ じんじゃ  
所在地 〈石狩管内〉江別市萩ヶ岡1番地1 (43度6分39.08秒 141度33分15.09秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 江別神社
・Wikipedia : 江別神社
・当社 HP
祭 神  天照大神(あまてらすおおかみ)
 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
 加藤清正公(かとうきよまさこう)
由 緒  元 郷社
 北海道神社庁誌には次のやうに載ってゐる(1)
由緒 明治十八年北海道開拓の為、熊本県より入植した屯田兵の守護神として江別市飛鳥山の地に一宇を建立。次いで明治二十四年出雲大社より大国主大神を奉戴、明治二十八年に現在の萩ヶ岡に遷座。大正四年、大正天皇御即位の大典記念事業として社殿、社務所を造営し、この機に神宮より天照大神を奉戴、主祭神として祀った。大正六年六月七日内務大臣より神社創立の認可を受け(内務省五−北社第十九号)次いで同年六月三十日付で村社に列し、大正十五年五月十二日郷社に昇格した。戦後、神道指令に基き宗教法人江別神社として新発足し昭和五十九年、御鎮座百年記念事業として現在の社殿を造営。

 江別市史(2)には次のやうに載ってゐる。
明治二十一年、江別屯田兵村共有地、飛鳥山に鎮座して、屯田兵村の守護神として創始された飛鳥山神社は、同二十四年江別町(*1)市街の住民からなる神社創建のことが起って、兵村側との話合いの結果、その頃、屯田事務局用地に属していた現在の萩ケ岡に、その頃"屯田神社"とも言われていた飛鳥山神社を合祀(*2)して「江別神社」となったものである。
(中略)
 江別神社の創建については、丁度その明治二十四年四月には、江別・野幌・篠津の現役兵のすべてが予備役に編入され、これまでの大隊本部は、滝川に移されたので、本部中隊医務室などの施設建物を初め弾薬庫・食糧庫・被服庫・営倉・番兵詰所等の建物は、以来不要となったので、このうち被服庫を譲り受けて、これを拝殿とし、その奥に方三尺の本殿を設けて神社とした。
 なお、『明治二十五年九月九日、飛鳥山神社発祉』と、当時の戸長役場の文書の中に、日記様に書き残されていることから、江別神社の創始は明治二十五年とするのが正しいようである。
(以下略)
註*1 江別町:江別が町制をしいたのは、大正五年(1916)。
 *2 合祀:遷座が正しいと思へる。但し、市史には「明治二十五年江別市街との合祀ということで萩が岡に遷されたのであったが」との記述もあり、江別市街に神社があったとも理解可能。
雑 記  函館本線江別駅から西へ0.2kmのところにある。
 記憶にあった参道と違ってゐる。水道庁舎が建ったからかと思ひ、古い地図を見たら、やっぱりさうだった。藤倉徹夫氏は、「この萩ヶ岡、通称字名を神社山という。私が子供の頃は、今の市水道庁舎辺りは、表参道の高い石段であった。それを登り、一の鳥居を潜って長い石畳がつづく。途中で裏参道の石畳と合流、参道は拝殿にむかう。参道の両側は木立が繁り、点々と石灯籠が置かれ、春夏秋冬、味のある景色を見せてくれる。自ずから神色漂い、祖先たちの囁きに抱かれた、そんな甘えで遊ばせてくれる天地であった。」(3)と表現してゐる。
 水道庁舎前の庭には、開村記念碑が建ってゐる。当碑は、昭和50年ころの国土地理院地図を見る分にはほぼ同じ位置に記号がある。とはいっても、当時は神社境内なのだが。忠霊塔は錦山天満宮境内に移転した。
開村記念碑

  北海道庁長官従四位勲三等澤田牛麿題額
  北海道帝国大学総長正三位勲一等農学博士佐藤昌介撰

江別町在石狩国札幌郡距幌都東六里面積十二平方里地勢概平潤西望藻岩手稲之 連山南遙見恵庭樽前之秀峰於煙雲杳霞中而石狩川貫邑内洋洋西注明治四年奥州 涌谷之民二十戸負采□爾来住此地蓋移住者之先駆也同十一年官募屯田兵于岩手 県釜澤良平外十一人奮然蹶起応募曰夫北海道我邦北門之鎖錀也大夫宜竭力於此 乃相携来江別兵村始於此是為開邑之紀元爾来屯田兵相尋至同十四年建篠津兵村 同十八年開野幌兵村同十九年北越植民会社創設農場於野幌而単独移住者亦陸続 至駸駸乎日趨於繁庶同三十九年四月施行二級町村制同四十一年冨士製紙会社創 設工場於本邑於是戸口滋加同四十二年四月施行一級町村制大正五年一月改村為 町先是歴代之邑長皆克尽其職所規画悉適機宜而邑人亦協心同力以従事墾開或斫 悪木焚叢篠或架橋梁通道路或穿溝洫放瀦水如此者多年美田良畴相連燦然改観而 今也闔邑三千三百余戸得耕地七千町歩民産甚饒也
惟開拓之業豈容易哉而北海之為地巨樹鬱蒼羆熊窟焉狐狸宅焉加之冬則積雪大余 冱寒裂膚然則非堅忍不抜以当事者安能徳成功邑人拮据経営五十年于茲備嘗艱苦 竟能致今日之隆其功洵可謂偉今茲昭和戊辰当開村五十年邑人追懐其功欲建石于 江別祠域以勤之来求文於予顧予移居幌都既五十余年普屢遊此地親目覩開村当時 之光景故不敢辞而敘其梗概如此
 昭和三年六月上浣
仙台 米寿翁佐佐木舜永書丹

(碑背)
(右端に)昭和五十六年江別市水道庁舎建設の為移設す
(左端に)陸前石巻 三浦源蔵 河部勇之S 刻
読みと意味。自分の覚えとして。文字の判読違ひがあるかもしれない。
・杳:よう。(1)くらい、(2)かすか(遙かに遠いさま)  ・于:う。(1)ここに  錀:(手持の辞書には載ってゐない)  ・竭:けつ。(1)つきる、つくす  ・駸駸:しんしん。(1)馬が速く走るさま、(2)事が速くすぎさるさま、(3)だんだん進歩するさま  ・扵:於の異体字。複数箇所で使はれてゐるが総て「於」に置換へた  ・敘:叙の異体字  ・洫:きょく。(1)みぞ  ・瀦:ちょ。(1)水たまり、(2)水がたまる  ・畴:ちゅう。(1)うね、(2)たぐい  ・闔:こう。(1)とじる(闔門)、(2)統べる・纏める  ・冱:ご。(1)とじふさがる、(2)かたくこおる  ・拮据:きっきょ。(1)忙しく働くこと、(2)仕事に励むこと  ・屢:屡の異体字  ・饒:じょう。(1)ゆたか  ・上浣:じょうかん。(1)上旬
 なお、旧境内地には、元 さっしん(札幌信用金庫)江別ビル(現 北海道信用金庫江別ビル)もある。何時出来たのかなぁ。水道庁舎ともども、わざわざ法面を削って低い位置に建物を造ってゐるが、洪水の歴史を振返れば、盛って少しでも高くすると良かった気がする。バリアフリーを優先したんだらうけど。

 萩ヶ岡には、江別小学校(4)があった。当社の西側の道を隔てた、地図では空地になってゐる所で、校歌には「名もかぐわしき 萩ヶ岡なる 学びの庭は清きところ あさなゆうなに手を取りあいて 正しく強く 育たん我等」(二番・三番にも江別小学校との言葉は使われてゐない)とあり、煉瓦造の校舎・時計台・校舎のはしにあった音楽室・貯炭場から教室へ石炭の運搬・冷たいプール(北海道の夏だから)・体育館前の砂場・煉瓦造の火薬庫、等が思ひ出される。担任は岡崎先生?、今名前が出てきた。正しいのかは自信なし。母が新聞を見て「校長先生になったね」と、40年も前に言ってた。
 Wikipedia(5)をみたら、江別小学校は、昭和60年には灯油暖房灯油になり、平成29年には生徒減少のため閉校。自分は卒業生ではないけれど、閉校を惜しんだ卒業生はさぞ沢山ゐたことだらう。取壊されてしまったのも残念。閉校記念誌が発行されてゐる。江別の図書館(当市では「情報図書館」といふ)には、60周年・70年・百年・百二十周年の記念誌もある。遠いけれど、読みに行かう。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  社頭


写真2  二の鳥居


写真3


写真4

写真5

御朱印


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.254
  2. 『江別市史 下巻』昭和45年3月 渡辺茂編 p.646-648  (尚、昭和38年には脱稿してゐたが冷水害のために発行が遅れたとのこと)
  3. 『ユベオツ撰書2 えべつ百話 下』 藤倉徹夫著 2007年 p.38-43 57話 名もかぐわしき 萩ヶ岡
  4. 令和2年3月22日閲覧 江別小学校 平成28年3月閉校
  5. 令和2年3月22日閲覧 wikipedia 江別小学校

改訂記録
  • 令和06.03.25 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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