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越後神社 (北海道〈石狩〉江別市江別太)

参拝日 平成30年11月3日(金)
作成日 令和2年6月9日(火)
追記日 令和6年3月24日(日)
よみ  えちご じんじゃ  
所在地 〈石狩管内〉江別市江別太169 (43度6分57.82秒 141度35分32.63秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  Wikipedia:越後神社(江別市)
祭神  未確認
由緒  神社庁包括外神社
 境内には、当社の由緒として書かれた物はなかった。
 入植者が創建した神社とみられる。
雑記  函館本線江別駅(明治15年開業)から東ないし東北東へ3.4kmのところにある。

 当社のすぐ南に国道12号線・鉄道が通ってゐて、現夕張川に囲まれた狭い範囲だけが入植地かと思ってゐたが、江別太は江別川(現在の呼称は千歳川)の東側の広い範囲だったやうだ。幌向原野の一角に当るが境は良く承知していない。
 現在の夕張川は当社の北で石狩川に合流してゐるが、昭和12年までは、室蘭本線栗丘駅の西2km程のところ(現在の石狩川合流地点から南南東へ11k)mから南西へ向ひ千歳川に合流してゐた。この(夕張太の合流地点から石狩川まで江別川と称してゐた、江別太だから江別川が自然な名付だった。(「ぶと」は口、合流場所の意味、えべつ もアイヌ語由来)。昭和12年に夕張川新水路の通水が行われ治水が大いに進んだ。併せて鉄橋を架けるため線路の位置が変更されてゐる。
 江別への屯田兵は、明治11年に第一次入地、17年第二次、18年第三次、19年第四次入地があった。
 北越植民社は、明治20年・23年に野幌に入植してゐる。
 この様な背景を知った上で碑文を読むと判りが良い。

・越後村沿革碑  何文字か読取れなかった。漢字は当用の字体に置換えた。
越後村沿革碑
  江別市長 山田利雄
明治拾九年北越植民社越後村ヲ創設ス □党拾七戸入 植拮据経営殆ンド餐眠ヲ忘レ開拓ノ先駆者タリ 爾来 開墾漸ク進捗スルモ洪水ノ災害甚シク辛酸ヲ極メ当 大正拾年夕張川治水工事ノ功ヲ致ス 為ニ沃野大イニ 開ケ酪農嘉登成ス 昭和四拾参年畬田ヲ作リ翠畦罫布 禾穀秀実年々豊カニ乃チ臻ルハ拾有余年 更ニ同四拾 六年時勢ノ進運ニ即応シ神社聖域ニ開道スルニ至ル 今茲ニ村民相謀 碑ヲ建テ父祖先人ノ辛苦ヲ忍ビ以テ 後毘二伝ヘシト欲ス 予乃チ其ノ沿革ノ梗概ヲ記シ□ クニ銘ヲ以テス
    昭和四拾七年六月弐拾六日
             古田島薫平 撰

・江別太開基百年 の碑
江別太開基百年

碑文
 この地は 幌向原野とその周辺への開墾移民を企図した北越植民社試墾起業の地である。北に石狩川をのぞみ 南に果てしなく拡がる原野の一角に 明治十九年大橋一蔵らのひきいる越後十戸石見の農民七戸が入地 未墾の森に初めて鍬を入れ越後村と呼称し江別太開拓の基となる 爾来独立移民相つぎ 同村を範とし活溌な開墾が進められた さらに開発をはばんだ中央部泥炭湿原も昭和二十八年来の開拓事業の実施により全域耕地化された この間おおよそ百年 開拓者は酷寒 風雪に耐え、たびかさなる水害、冷害にも屈せず不毛の曠野を克服 治水事業による地域条件変化に対応 有数の酪農地帯を形成、昭和四十年代に至り近代機械化営農による大型水稲酪農地帯への地歩を固めた。
 いま新らたなる世紀をむかえ 生活環境整備も著しるしく これ先人が遺し伝えた不変の愛郷心と不屈の開拓精神の結晶である。ここに碑を建て江別太開拓のさきがけとなった功をたたえ、感謝の誠を捧げる。
 昭和六十年六月 江別市長 岡英雄撰

越後村入植之地

 他に次のものがあった。
  • 開拓(?)記念碑  「北海道之埜畫以為十土壌沃饒艸繁茂茫茫」ではじまる四百余字の漢文で、「明治二十八年十月」の日付が刻まれてゐる。北越植民社初代責任者大橋一蔵の死去(明治22年2月12日、42歳)に当り業績を称えるものか?
     大橋一蔵、北越植民社、二代目責任者関矢孫左衛門の名は、野幌神社にある「野幌開村五十年記念碑」「野幌開村百年」碑にもみえる。
  • 開村五十年記念碑  昭和十年六月
  • 手水鉢  昭和十年六月
  • 北海道行幸記念 の碑  越后村氏子一同 献木 ナナカマド トドマツ 昭和十一年七月建之
  • 灯籠一対  紀元二千六百年記念 昭和十五年六月廿二日
  • 畜護神  昭和二十年六月二十二日創祀 大島軍司謹書


 栗山天満宮を急いで出発し当社に着いたのは16時15分ころ。木々が繁ってゐる境内は薄暗かった。写真は自動で撮影してゐるので、勝手に感度が ISO 1000 になったりする。シャッター速度優先に設定するくらいの余裕をもってゐなくちゃいけないな。写真の解像度が落ちて、文字が読取れない一因かと。
 このあと、江別市内の旅館に向った。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2


写真3


写真4


写真5  江別市保存木 はるにれ


写真6  江別市保存木 イチイ(おんこ) 木製立札には次のやうに記載「永山武四郎 お手植松 明治二十八年十月七日 屯田兵本部長 陸軍少将 永山武四郎」
 何故か上に延びずに横に拡がってゐる



写真7  江別太開基百年 の碑


出典・脚注
  1.  ─

改訂記録
  • 令和06.03.24 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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