由 緒
神社庁包括外神社
江別市史には次のやうにある(1)。
美原神社 年代は不明だが、後藤熊太郎らによって、三十一線八号附近に天照大神を祀った小さな祠が設けられたほかに、九号の三十線附近にも同じように天照皇太神を祀っていた。また十号の三十五線の近くにも豊受太神を祀った祠三箇所にそれぞれ建立されていた。
その後、東西ポン篠津及び美原野四原野の統一した神社を建設すべきであるとの地域住民からの要望もあって三神を合併し、明治四十三年十月十号線の三十二線に仮の神社を建てて合祀した。それが美原神社の起源である。
次いで明治四十五年十月神社造営が成った。工事費三百三十九円七十五銭九厘を要した。世話人会を設けて氏子一同の寄附金を以って経費とした。祭神は天照大神と豊受大神であったが、毎年火事が多かったことから大正十三年に、火の神である古峯大明神を合祀して三祭神とした。敷地は美原小学校用地のうち五反歩を神社用地とした。
昭和二十八年五月美原神社の改築に着手、九月上旬壮麗な神社の造営を見た。境内には高さ五メートルの鉄筋コンクリートの鳥居、美原神社社標、太平洋戦争忠霊碑を建立した。これらの総工費は百七万円、ほかに木材、砂利等の資材運搬並びに基礎工事等は氏子一同の奉仕作業で行われて旧神社は南東三十メートルの位置に移し、神社用具等の保存庫に供用している。
神社祭は春期六月の社日とし、秋は九月十七日宵祭、十八日本祭として今日に至っている。
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| 雑 記
| 函館本線江別駅から北へ5.1kmの所にある。1.5km北は新篠津村との境。
境内には碑他の建造物がいくつもあった。神社庁包括外の神社だが、社殿・敷地を見る分には、包括下にはいる充分な要件を満たしてゐるかに見える。
- 「日露 明治参拾七八年戦役記念碑」 明治三拾九年三月中旬建之
- 「牛馬頭観世音」 昭和四年七月建之
- 灯籠一対 昭和十二年九月
- 狛犬一対 昭和十三年九月十五日建之 明治三十七年渡道 松崎わ○ 七十二才
- 「忠霊塔」 戦死者名が刻まれてゐる
- 「開基之碑」 昭和三十九年九月 (碑文は下記参照)、社号標も昭和三十年九月建之
開基之碑
北海道知事町村金五題額
開基草創ノ三原ハ老樹鬱蒼トシテ天ヲ蔽イ葦ノ茂ル寂漠タル泥炭ノ
地加エテ母ナル篠津父ナル石狩ノ両川ハ幾度カ良圃二大水害ヲモタ
ラシ先人ニ不屈ノ開拓魂ヲ恵与セリ困苦ト歓喜人煙遙カナ此ノ原野
モ遂ニ汗ト血ニヨル人為ノ勝利トナリ今日ノ乳流レ稲穂波打ツ大地
ヲ見ル二至レリ先人ヨク後世ヲ慮リテ早クヨリ子弟ノ教育ニ意ヲ注
ギソノ開拓精神作興ノ成果ハヤガテ近代国家変遷ノ一翼ヲ担ウ組合
行政ニヨル農村振興ノ実現ヲ見タリ村民ヨク拡大セル部落ノ造田計
画ニモ相和シ大部落形成ニ身ヲ挺シ溝ヲ穿チ道ヲ通ジ橋ヲ架シ客土
二暗渠排水ニ精魂ヲ傾ケ今ヤ古キ泥炭ト葦ノ面影スラ見出シ得ザル
美田良酪ノ沃土ト化スニ至ル昭和十四年三原を美原ト改称シ名実共
ニ一大農郷トシテ盤石ノ礎ヲ築クココニ開基七十年ノ歴史ヲ辿リ此
ノ碑ヲ建立ス
昭和三十九年九月
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- 手水鉢 自然石の形を生かした1973年(昭和48年)の年記のある大きな手水石と、他に二つの四角く整形した石製手水鉢がおかれてゐる。
- 「躍進 美原小学校閉校記念の碑」 江別市長 岡 英雄。 碑文によると昭和六十一年三月に八十三年の歴史を閉ぢたといふ。卒業生は1381名といふ。
- 「美原開基百年」の碑 江別市長 岡英雄書
碑文
壮図を胸に人跡未踏の荒野に挑み峻烈極む風雪と望郷の念に耐えひたすら子孫と郷土の発展を冀い血と涙と意気地で綴つた百星霜苦節実り沃土となせしこの大地その開拓魂を永遠に継ぎゆかんと今、改めて先人の偉業に想いを馳せ限りなき前進への願いをこめて 茲にこの日を建立する
平成六年九月十一日
美原開基百年記念事業協賛会
撰文書 江別市議会議員森田正夫
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本日は、三日間の神社巡りの最終日となった。当初予定は、欲張った計画なので昨日までに23社の計画に対し実績は18社。本日は、昨日訪れられなかった江別市内の二社を巡ってから札幌市内の何社かを巡り、12時30分に札幌駅北口でレンタカーを返却する予定だ。
一社目は、美原神社。宿からの道程は凡そ7km。7時30分頃着いた。
今日も天気に恵まれてゐる。
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