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篠津神社 (北海道〈石狩〉江別市篠津)

参拝日 平成30年11月3日(土)
作成日 令和2年6月13日(土)
追記日 令和6年3月24日(日)
よみ  しのつ じんじゃ  
所在地 〈石狩管内〉江別市篠津401 (43度8分52.85秒 141度30分58.56秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  ─
祭神  安徳天皇
由緒  神社庁包括外神社
 江別市史には次のやうに載ってゐる(1)
篠津神社  明治十四年に屯田兵十九戸が入募したのに始まり、次いで四十戸の屯田兵が入募してからは、この地帯は次第に賑やかになった。
 旧兵村と新たに設けられた四十戸の屯田兵村との間に流れている篠津川に、その頃投身する者が多かったことから、『女難鎮魂』のため四十戸で、東西に貫く道路(札幌・対雁を経て当別に至る道路)が篠津川に交差する近くの堤防地区に、水天宮安徳天皇を祀ったのが神社の創始となっている。
 神体は、鳥取県出身の屯田兵梶村石蔵の父友十郎が護符として郷里から身につけて来たものを、奥田亀太郎、梶村石蔵、滝登喜馬等の屯田兵が発起人となり東部の人々の手で創建されたのであった。
 その後大正七年春、二十九番地(萩原芳太朗給与地)に移転したが、その周囲が水田化して来たことから昭和十一年八月、同二十一番地元屯田兵辻萬助給与地であり篠津小学校敷地となっている北続きの開村記念碑敷地の隣地二十四.五間縦六十五間この坪数千五百九十二坪五合(五反三畝二十五歩)の境内を得て再び遷宮した。祭典は九月四、五日司式は江別神社内田宮司によって行われている。
 社殿は平成23年に新築された模様。
雑記  函館本線江別駅から側北西へ5.6km、石狩川の右岸の所にある。

 境内の石像物等は次の様。
  • 手水舎  手水鉢は明治廿八年九月五日と年記がある。
  • 開村記念碑  昭和六十二年改建とある。碑文は、以下の漢文で内容から大正年間に立てられたと思はれる。漢字は、当用の字体に置きかへた。
    篠津村明治十四年移青森岩手山形三県二十戸同十八年移鹿児島佐賀鳥取石川熊本五県三十戸越十九年移山口鳥取広嶋三県十戸為屯田兵以任北門之鎖鑰焉以今思往巨樹翳天白日黯淡蒙茸没人熊狼跋扈実有使人戦慄者也己而諸士克奮励□墾闢之効今也移住士日加月増将垂三百戸柳亦偉矣是豈可謂沿化之恩文明沢哉今慈方大正御宇村民挙而建碑伝之于不朽矣

      □:券の刀部分を禾となった文字
  • 鳥居  昭和十一年建之 とある。然し、鳥居の状態を見ると、建替へられてゐると思はれる。
  • 狛犬一対  「昭和十二年七月十日建之 施主 草刈多賀蔵」「故陸軍歩兵上等兵 草刈数雄 札幌郡江別町字篠津四百番地 昭和十一年三月一日満州獨立守備隊上田隊ニ入営開原分遣隊所属」とある。
  • 忠魂碑  戦没者名が刻まれてゐる。日露戦役二名・満州事変二名・大東亜戦争十七名。狛犬に刻まれてゐる草刈数雄さんの名も満州事変のところにある。
  • 篠津開基百年 の碑 碑文が次のやうにある。
    参議院議員町村金五題額
    篠津開基百年碑誌
    篠津村ハ明治十四年七月七日屯田兵十九戸ノ入地ニ依ツテ開カレ次イデ仝十八年三十戸仝十九年十戸ガ配置サレ屯田兵村トシテ北辺ノ警備ト開発ニ当リ兵農一如以ツテ開拓ノ草創トスル
    惟フニ往時此ノ地ハ巨樹蒼々トシテ天日ヲ蔽ヒ丈余ノ熊笹人畜ヲ没シ熊狼跋扈ニ漂ヘル千戸不斧ノ密林タリ 先人克ク艱難辛苦風雪ニ耐ヘ拮据餐眠ヲ忘レ開墾ノ辛酸ヲ舐メ水害ヲ克服シ翠畦罫布良圃美田大イニ拓キ今ヤ豊穂連リ禾穀秀実肥畜沃野ニ群レ乳香青嵐ニ馨リ余慶極リナシ
    茲ニ開基百年ノ歴史ヲ辿リ郷土創成ノ偉功ヲ不朽ニ讃ヘ更ニ限リナキ未来ヘノ豊ナル繁栄ヲ孫毘ニ嘱セントスル
     昭和五十六年七月七日
  • 1986.3 閉校記念 の碑  子供たちのものと思はれる手形が名前と共に貼付けられてゐる。昭和25年の地図をみると、当社の南に隣接して学校があったのがわかる。調べてみると、明治19年開校し、昭和61年に篠津・江北・美原の三校が統合し北光小学校が開校してゐる。閉校時の校名は、江別市立篠津小学校。新しく開校した北光小学校の場所は、石狩大橋右岸側たもと近く。
  • 灯籠一対  平成二十三年十一月吉日 と年記がある。
 道後側から社殿側へ参道北側に、篠津開基百年 の碑、閉校記念 の碑、開村記念碑、忠魂碑の順に並んでゐる。

 ふっと、思ひつき、鉄道旅行地図帳(第1号 北海道 平成20年発行、新潮社)を開いてみた。江当線が、昭和二年に開通してゐた。石狩大橋の右岸側袂辺りの江別駅から当別までの11.3kmを走ってゐたが、札沼線開通により昭和11年に廃止となってゐる。そして、江別駅の隣駅は3.0km北にある三原駅で「さんげん」と読むと知ってびっくり。「みはら」とばかり思ってゐたから。美原神社にある「開基之碑」には「昭和十四年三原を美原ト改称シ」とあったけれど、三原は「みはら」と読むのだと疑ひもしなかった。江当鉄道は、石狩川に鉄橋を架けられず、江別市街には乗入れてゐなかった。
 江当線江別駅の位置は、昭和12年の地図によれば、現在では堤防の外側(石狩川河川敷)で、石狩大橋の右岸堤防から200m程南の所となってゐる。当時の川幅は現在の1/4程で、現在は右岸側に拡げられてゐる。洪水頻発してゐたのも尤もなわけだ。なお、当社からは3km余りの距離がある。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2


写真3


写真4  篠津開基百年 の碑


写真5  開村記念碑


写真6  忠魂碑


出典・脚注
  1. 江別市史 下巻 昭和四十五年三月三十一日発行 編集者 渡辺茂 p.648 (昭和三十八年には脱稿してゐたが、冷水害のため発行に至らなかった)

改訂記録
  • 令和06.03.24 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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