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豊幌神社 (北海道〈石狩〉江別市豊幌)

参拝日 令和元年5月29日(水)
作成日 令和2年7月11日(土)
追記日 令和6年3月21日(木)
よみ  とよほろ じんじゃ  
所在地 〈石狩管内〉江別市豊幌703番地6 (43度7分59.02秒 141度37分57.05秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 豊幌神社
祭神  天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 大國主神(おおくにぬしのかみ)
 神武天皇(じんむてんのう)
由緒  拝殿内に由緒が掲示されてゐる。(一部、榊の葉陰で読めない文字があるかも知れない)
豊幌神社
一.祭神
  天照大神
大国大神
神武天皇
一.由緒
社名 創始年月 区域
沼の端神社 創始明治30年 中央地区(南町内含む)
大国主神社 創始明治30年 巴農地地区(第四)
ハンノ木原神社 創始明治31年 第五地区
豊幌土地改良区神社 創始昭和24年 豊幌水田全地区
各地に於て守護神として春秋に祭典をおこなつていましたが昭和42年各神社の御神体を合祀した
一.創建    昭和42年4月13日
一.鎮座地   昭和42年4月13日取得
一.遷宮    昭和42年4月13日
一.新社殿造営 昭和50年9月12日
一.例祭    春祭 4月3日 秋祭 9月12日
一.氏子区域  豊幌全域
    昭和50年9月12日
       謹書 宮下一男

 社頭の掲示には、「御創祀 明治三十年」とある。

 北海道神社庁誌には次のやうに載ってゐる(1)
由緒  明治二十四年に土功組合神社、明治三十年に沼の端神社、大国主神社、明治三十一年に榛の木原神社がそれぞれ建立された。昭和三十九年になって、幌向川の切換えにより揚水機場を移設しなければならなくなった。この揚水機場敷地内に建立されていた土功組合神社も移転しなければならなくなり、この際に四社を合祀して豊幌地区全域の守護神としようという事になり、昭和四十一年豊幌神社として合祀された。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神  土功組合神社 天照大神 明治二十四年創祀 昭和四十一年合祀・沼の端神社 神武天皇 明治三十年創祀 昭和四十一年合祀・大国主神社 大国主大神 明治三十年創祀 昭和四十一年合祀・榛の木原神社 天照大神 明治三十一年創祀 昭和四十一年合祀

 昭和38年脱稿の江別市史には「豊幌神社」として、次のやうにある(2)
 明治三十一年四月十五日、豊幌(当時空知郡幌向村戸長役場管内となっていたもので幌向太と称していた)第五農事組合区域に神社を設けた。
 高間専次郎、帰山某の二人が代表となって、南一線西七号薯田某の所有地の一部を敷地として、附近のタモ木を伐採して、尺角長さ五尺のものを作り江別神社神官田頭和三衛門(江別屯田兵村出身者)を馬で迎えて、「天照大神」と揮毫してもらい「ハンの木神社」として部落民信仰の中心としたのであった。しかし、同年九月九日の大洪水のため流失したことから、同三十三年四月、南一線野崎某の地所内に、一尺四方高さ六尺五寸の石を豊平町の石屋で買入れ「天照大神」と彫り、馬梶をもって運搬して安置した。
 その後、明治三十八年秋に至って、高間千吉から神社移転方の要望があって、翌三十九年九月九日現在の位置に移転した。
雑記  函館本線豊幌駅から南東ないし東南東へ0.7kmの所にある。

 社殿の南西側の草が短く刈られた土地の隅には「開拓之碑」が建ってゐた。碑文は次の様。 (仮名遣は表記通りに転記した(正仮名・新仮名混じってゐる)。一部に正漢字が使はれてゐるが当用の字体に置換へた)
開拓之碑
 江別市長 松川 清 書

本地区は明治十四年国道開通翌十五年小樽幌内間の炭鉱鉄道の開通後八年経過の明治二十二年に此の地に居を構えたのは伊坂竹造という人で幌向川沿に渡船と小農を営んだに始り明治二十三年川合市太郎翌二十四年梶野石太森永善太郎岡本猪熊等同二十五年には渡道待機してゐた三好小平三好芳造其他が区画植民として入地したることにより老樹鬱蒼と陽を蔽ふ寂寞の地に本格的な開拓の鍬がおろされたのであつたその後明治三十一年幌向村育成小斈校幌向太分教場の開校に依り義務教育が始り三十四年十月郡界変更のため幌向村より江別村に編入され交通の不便は稍緩和されたが冷害水害に苦しみつゝ来るべき年の幸福を祈り乍ら鋭意村造に努めた しかしながら畑作経営では成形困難となり大正十三年加藤銊太郎川合毅一三好岩吉堀田倉之助等相圖り開田に踏切り道の許可を得て同十五年百三十町歩を開田昭和二年更に五十町歩の造田に成功し計百八十町歩の造田を見るに至つた其の後昭和拾六年四月夕張川の切替に依り江別太の一部榛の木原の十一戸を合併し部落名も既に同十四年豊幌と改め部落の発展と経営の安定に努力したが打続く用水路の災害に加え隔年の様に冷害に痛めつけられ乍らも米作えの努力は続けられた折しも終戦後の食糧増産のため幌向原野の開発が国策として計画化されていたので昭和二十八年樺太引揚入地して居た豊幌滝野部落が駐留軍演習地に接収されて他転の止むなくされた十六戸が入植翌二十九年以降一般入植として四十数戸の入地を見葦と沼の不毛の幌向原野の開拓に営々として苦闘を続けられたが畑作地開拓では将来の見通しも暗く同三十九年開田に計画変更し辛苦の結果四百余町歩の全面開田に成功し現在八百余町歩の黄金波打つ豊幌理想郷を築きあげたのである 此処に先人の偉業を想い開基八十周年と幌向原野入植十五年を卜し碑を建立しその遠隔の大要を記録誌地域住人の隆昌を希うものである
  昭和四十三年九月十五日

   注 小斈校:小学校  稍:やや

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
社頭
写真1 拡大 (1280×960)

参道は、この先左へ直角に折れてゐる。

社号標は「豊幌神社 江別市長 山田利雄」「昭和五十年九月十二日 豊幌神社御造営奉賛会一同」

一の鳥居後方の狛犬:1975年9月12日奉賛会一同

二の鳥居
写真2 拡大 (1280×960)

二の鳥居

拝殿
写真3 拡大 (1280×960)

社前の狛犬:平成7年11月吉日

灯籠:平成7年11月吉日 奉賛会一同

拝殿内部
写真4 拡大 (1280×960)

社殿側面
写真5 拡大 (1280×779)

社殿側面


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.284-285 豊幌神社
  2. 『江別市史 下巻』昭和四十五年三月発行 p.650-651 (昭和三十八年脱稿も冷水害のため発行が遅れた)

改訂記録
  • 令和06.03.21 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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