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生振神社 (北海道〈石狩〉石狩市生振)
参拝日 令和元年6月29日(土)
作成日 令和2年8月22日(土) 追記日 令和6年3月19日(火) |
おやふる じんじゃ
| 〈石狩管内〉石狩市生振 203-4 (43度11分41.65秒 141度21分52.26秒)
| 地図:地理院地図(ズームレベル15) いつもNAVI(ズームレベル13) 参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
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HP等
| 北海道神社庁 北海道の神社 生振神社
| 祭神
| 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
| 誉田別命(ほんだわけのみこと) 大物主命(おおものぬしのみこと) 無格社
| 北海道神社庁誌には次のやうに載ってゐる(1)。
いしかり市民カレッジ(2)によると、次の様。
また、石狩ファイル(3)によると、次の様。
雑記
| 石狩市役所から北東へ5.2mkの所にある。北西5.0kmは石狩湾(日本海)。
| 記念碑がある。そのどれもが愛知団体によるものだ。明治24年に濃尾地震があったのが渡道の一因らしい。 和敬芳と題された記念碑がある。開基五十年と云ふから昭和十九年の建立と思はれる。最初は、伏籠神社境内(記念保護樹の、はるにれ(あかだも)の木のある所)にあった。(漢字は現在通用の字体に置換へた)(写真5参照)
長江常三郎氏の顕彰碑がある。風化で殆どの文字の消えてゐて、残ってゐるのは「念碑」「維」「長」のみだ。然し、同じ基礎上に昭和五十八年再建された碑があり、次のやうに刻まれてゐる。(漢字は現在通用の字体に置換へた)(写真5参照)
「愛知県団体開拓百年」の碑があり、書は日本電信電話(株)社長の児島仁氏(入地者三代目)。 その隣には記念事業の概要を述べた碑がある。碑文は次の様。(写真5参照)
灯籠は三対あり、○○家渡道百年記念として故人を含めた一族の氏名を記した碑誌を備えたものもあり、愛知県団体一色ではなささう。 本日の神社巡りは、当社で終了。後で判った事だけれど、当別町内のいくつかの神社の御朱印は当別神社で頂けると云ふ。知ってゐたら、当社(生振神社)は計画に入れずに当別神社を訪れてゐたかも知れない。御朱印に執着してゐないし、事前の調べは過ぎると良くないと考えてゐるから、かも知れないとしか言へない。 当社を参拝に選んだのは、当別から札幌駅前でレンタカーを返却するまでの間に行ける所で探したら、石狩川の流路切替えで島状になった土地で何があるだろうかと思ったこと、生振(おやふる)の地名が難読だったこと、国土地理院の地図には社名が記載されてゐる、の三つ。 この地は、石狩市web(4)やWikipwedia(5)によると、 ・発見された遺跡・遺物から4000年前から人が住始め、本州からの移民が入る前はアイヌが二三部落あった ・明治4年に山形県米沢から124人の入植で集落形成、オヤフルの地が生振村と命名された(石狩市)。或石碑には旧米沢藩士の玉木琢蔵によって引率された、宮城県と山形県の移民29戸が入植(wiki)。 ・明治35年、石狩町の一部となった。 ・大正7年、石狩川初の短絡(生振捷水路)工事が始り、昭和6年に完成。堤防工事が続けられ昭和14年に完工。工事に伴って形成されてゐた千人規模の市街地は、消滅した。市街地には香取神社が創建されてゐた。旧石狩川部分は、現在、茨戸(ばらと)川と呼ばれてゐる。 ・平成20年の登録人口は、442人。農業の機械化、大規模化、高齢化で人口減。 |
写 真 (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます) |
写真1 拡大 (1280×960) 社頭 社号標は昭和拾壱年九月拾九日建立。 |
写真2 拡大 (1280×960) 参道 |
写真3 拡大 (1280×960) 社殿正面 狛犬は、昭和十年九月に奉納されたもの。(狛犬はもう一対が、鳥居近くにある) |
写真4 拡大 (1280×960) 社殿 斜め前から |
写真5 拡大 (1280×960) 写真右から、 ・愛知県団体開拓記念碑(昭和十九年四月)、 ・記念碑と再建碑 ・「愛知団体開拓百年」碑 ・愛知県団体開拓百年記念事業の概要の碑 |
写真6 拡大 (1280×960) 社前から鳥居方を望む |
出典・脚注
改訂記録
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