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愛宕神社 (北海道〈石狩〉新篠津村)

参拝日 令和元年6月29日(土)
作成日 令和2年8月1日(土)
追記日 令和6年3月20日(水)
よみ  あたご じんじゃ  
所在地 〈石狩管内〉新篠津村第36線北32 (43度14分7.57秒 141度34分28.09秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 愛宕神社
祭神  天照皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)
 迦遇突智命(かぐつちのみこと)
由緒  新篠津村史には次のやうにある(1)
武田地区に所在する武田神社も創立は古い。明治二十八年六月の建立で、祭神は天照皇大神だが、最初武田農場主がまつったのは愛宕山大権現から祭神を勧請したといい、当時は神社名も「愛宕神社」と称した。はじめ三十六線北四号に所在したが、大正時代に現在位置に移転した。春の祭典は二月二十八日、秋の例大祭は九月十日である。

 北海道神社庁誌には次のやうに載ってゐる(2)
由緒明治二十八年武田鐘蔵が愛宕神社の御神体を奉斎し現在地に入植開拓に従事、入植者の増加と共に此の地を武田農場と呼び現在に至る。創立は不明なるも大正の初期より神社有り、三月二十八日を春祭、九月十日を秋祭として執行している。昭和五十九年附近一帯の水田基盤整備の際、神社用地として六百六十九ぽを確保し当時総代であった奥山重治名儀にして登記をした。以前から法人にしてはとの事であったが一致せず、平成即位の大札を卜して宗教法人愛宕神社とする事に決定した。昭和三十九年天照大神を合祀する。
雑記  参拝当時の最寄駅は札沼線石狩金沢駅(昭和10年開業、令和2年5月7日廃止)で1.2kmの距離であった。令和2年4月18日からは同線終点の北海道医療大学駅が最寄駅となった。当駅から当社は東北東へ2.2kmの位置になる。
 新篠津役場からは西ないし西北西へ7.0kmの所にある。

 新篠津村の西部にあり当別町との境界は西600m程の所にある。道路から用水路(或は排水路)と思はれる水路を細い橋で渡った右手にある。左手には民家が有り、入って良いものかと訝しく思ひながらも、神社庁包括下の神社で個人持ちでは無いから問題ない、と言聞かして車を進めた。
 当文書を書くに当り、昭和20年代の地図を見たところ、蛇行する篠津川が描かれてゐて、水田基盤整備に際して流路を水田の形に添ふやうに変更したのだらうと得心した。また、武田の集落に石碑があるが、どのやうな石碑なのか見ておきたかった。かつて学校があったのでその記念碑か、或は当地の開基を記念するものか、当社の旧地なのか、気になる。

 新篠津村内の神社参拝は当社で最後となった。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
全景
写真1 拡大 (1280×960)
全景

鳥居正面
写真2 拡大 (1280×960)

社殿は西向き。

社殿正面
写真3 拡大 (1280×960)

写真手前左にある手水鉢は「昭和三十二年九月 奉納」とある。
社殿内には、太い注連縄が置かれてゐた。
向拝の扁額は「愛宕神社」と一行一文字(左から縦書)で墨書され、縁に「昭和四十八年豊穣の為 埜村忠三郎謹書」と添へられてゐる。

社殿・斜め前
写真4 拡大 (1280×960)
社殿・斜め前


出典・脚注
  1. 『新篠津村史』昭和五十年九月刊 p.684
  2. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.284

改訂記録
  • 令和06.03.20 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。

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