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北海道護国神社 (北海道〈上川〉旭川市花咲町)

参拝日 平成30年9月3日(月)
作成日 令和元年9月7日(土)
追記日 令和6年4月1日(月)
よみ  ほっかいどうごこく じんじゃ  
所在地 〈川上管内〉旭川市花咲町一丁目 (北緯43度47分17.29秒 東経142度22分0.34秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 北海道護国神社
 Wikipedia:北海道護国神社
 当社HP
祭 神  北海道及樺太関係の殉国英霊六万三千有余柱
由 緒  元 内務大臣指定護国神社
 境内にはつぎの掲示がある。
北海道護国神社沿革

一、鎮座地 旭川市花咲町一丁目
一、創祀  明治三十五年五月五日
一、祭神  明治戊辰の役以来大東亜戦争に至るまで北海道樺太関係の殉国英霊六万三千有余柱を祀る
一、境内  19455坪(64200平方米)  原始の樹林を保存 北海道池・樺太池の樹泉の美を擁する
一、例祭日 六月五日 慰霊の諸行事も盛大に執り行われる
一、北鎮安全神社(境内社) 昭和四十三年開道百年を記念し交通産業の安全祈願社として創建された。

 北海道神社庁誌には次のやうに載ってゐる(1)
由緒 明治三十五年、旧第七師団長大迫尚敏主催の下練兵場に小祠を建立し、北海道の国事殉難者並びに開拓に殉じた屯田兵の招魂祭に始まり、明治四十三年現在地に新に社殿を建立、昭和十年北海道招魂社と称す。昭和十四年官制の改変により北海道護国神社に改称し、明治戊辰の役より大東亜戦争に至る全道並びに旧樺太の戦没者を祀る。昭和四十年、五年の歳月を費し本殿を大造営、総流れ造りとした丹碧の塗装を施した全道の英霊の総祭祀社としての名実を兼備する。
境内外摂末社 北鎮安全神社 北鎮大神 雷電大神 愛宕大神 猿田彦大神

 北鎮安全神社についてはweb上に次の記述があった(2)
昭和10年に第7師団官舎地帯の氏神として、旭川四区の偕行社前に[鹿島神宮]と[香取神宮]の分霊をお祀りしたのがはじまりです。その時には『北鎮神社』と称していました。
 昭和43年の開道100年記念事業の一環として現在地に移転し、交通安全と産業守護の守神として[愛宕神社][猿田彦神社][雷電神社]の『安全3神』の分霊を合祀して名称を改めました。
雑 記  函館本線旭川駅から北へ3.0km、宗谷本線新旭川駅から西北西へ1.8kmの所にある。北には陸上自衛隊旭川駐屯地がある。

 境内には慰霊碑などがあり、碑文の確認をしてきたのは次のもの。碑文は写真下方に記載した。
  • 「第七師營舎建築碑」「勤而有功」 明治三十五年 第七師団長杉原美代太郎書 (碑文は漢文で約500文字、転記断念)
  • 「北海道招魂社」社号標 第七師団長杉原美代太郎謹書 石材は新得町の有志、建設は帝國在郷軍人会十勝連合分會
  • 「殉役軍馬之碑」 昭和九年(碑文)
  • 「天皇陛下 皇后陛下 行幸啓記念」碑  昭和二十九年の行幸啓記念碑を昭和四十八年に移設したもの(碑文)
  • 遺族会創立二十周年の碑(碑文)
  • 「歩兵第八十九聯隊 戦没者合同慰霊碑」 昭和五十一年 町村金五書(碑文)
  • 「一木支隊 鎮魂碑」 昭和五十六年(碑文)
  • 「慰霊平和」碑 平成八年 (北海道近衛兵の慰霊と平和祈念、近衛兵の誠心と名誉を伝える碑)(碑文)
  • 「旭川郷友会設立五十周年記念碑 郷友」 平成十七年建立(碑文)
  • 「樺太国境標石」(レプリカ)の碑(碑文)
  • 「樺太・北海道池」の碑 平成十六年建立(碑文)

 計画は、30分の滞在だったが、50分となり、遅れは累積して1時間45分ほど。このあと、上川神社頓宮上川神社を訪れ参拝。どうやって遅れを恢復するのか、いずれ決めなくてはならない。12時25分出発。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  拡大(640×240)


写真2  神門、手水舎が大木の背後に


写真3  拝殿と楡の大木(樹齢400年とか)


写真4  拝殿


写真5  手水舎、石は神居古潭産で15トン、昭和17年奉納


写真6  境内社 北鎮安全神社


写真7  遺族会創立二十周年の碑 碑文の拡大 (平成十六年十月改修)


写真8  樺太国境標石(レプリカ)


写真9  「樺太・北海道池」の碑 碑文拡大


御朱印


御朱印

碑 文
「殉役軍馬之碑」(第七師団長杉原美代太郎書)の碑文 (文頭に戻る)
 
軍馬ノ役務ニ殉スルモノ誠ニ憐悼ニ堪へス茲ニ満州事変ヲ契機トシテ北海道在住官民有志相図り此碑ヲ建立シテ以テ當師團創設以来ニ於ケル殉役軍馬ノ霊ヲ慰ム
 昭和九年

「天皇陛下 皇后陛下 行幸啓記念」の碑 碑文 (文頭に戻る)

この碑は昭和二十九年八月十一日北海道の地方事情御視察の御砌親しく当社旭川工場(春光町六区)に行幸啓あらせられたのを記念して場内に建てられたものであるが同工場は旧陸軍第七師団砲兵連隊の兵舎であり明治三十五年五月五日その前庭に於て初めて招魂祭が執行された由緒深い所である。よって本年同工場を閉鎖するにあたり関係者相図り碑を護国神社境内に移し旧跡を偲ぶよすがとした次第である。
      昭和四十八年六月二十三日
北紡株式会社謹誌

転記者註 北紡株式会社は、昭和25年に設立された、ホクレンの前身である北海道農業会の旭川工場羊毛紡績部門が独立した会社。農家に綿羊を飼育させて集めた羊毛を製品化してゐた。羊毛自由化が行はれた昭和36年以降、業績が悪化し昭和48年に工場を閉めた。(3)

遺族会創立二十周年の碑 (文頭に戻る)

【表面】
 忠魂とこしへに安かれ
  北海道知事 町村金五書
 以下は写真参照 碑文の拡大
【背面】
由緒
昭和二十年八月十五日未曾有の大東亜戦争は終結したが敗戦の混乱に我等肉身を國家に捧げた遺族の悲痛惨苦は言語に絶するものがあった時に旧第七師團長岡崎 登翁は有志と相謀り思を将来に致し英霊の顕彰と遺族の更生のため萬難を排して翌年早くも全國に魁けて本会を創立した爾来幾多の困難を克服し遂に全道市町村に遺族会を結成しその加盟する者約四万世帯に及び克く所期の目的を達成しつゝ今日に至った
ここに其の創立二十周年を迎うるにあたりこの碑を経て翁の遺志と共に我等の心情を刻み永く記念とする次第である
北海道連合遺族会長井川伊平誌す

歩兵第八十九聯隊 戦没者合同慰霊碑」碑文 (文頭に戻る)

碑文
歩兵第八十九聯隊は昭和十四年満州國錦縣に於て満州獨立守備第五第六及び第十大隊を編合し創設され爾来第五軍二十四師團隷下東部國境東安に駐屯軍旗の下に團結北辺の護を全うすとともに秋霜烈日日夜武を磨き精鋭破竹の魂を培い以て盡忠報國の氣概を育くむ 時恰も昭和十九年大東亞戰々局漸く苛烈を加え戰雲また本土に及ばんとするや同年七月聯隊主力に動員下令沖縄防衛の重責を荷う翌二十年四月来米軍侵攻を迎撃八十四日に及ぶ死鬪を重ね聯隊長金山均大佐以下二千六百八十余名悠久の大義に殉ず
また中部太平洋に派遣された大隊長佐々木巳代太大尉以下五百八十余名はサイパン島の守備に任じ昭和十九年六月怒濤の如き米軍を迎え勇戰奮闘遂に護國の鬼と化す更に一部は満州及び北支那の辺境に或は遠く南溟の果てに挺進し其の多くは帰らざる人となった
聯隊が軍旗の下に纏まり玉砕した戰例は多く見るも本聯隊の如く作戦に當り分割離散を強いられ夫々の部隊が惡戦苦鬪の末殆どが玉砕した例は昭和の戦史においても稀な悲劇の聯隊である
此處に兵員補充原隊(歩兵第二十八聯隊)ゆかりの地旭川に戦友遺族相寄り此の碑を建て戰没英霊の崇高なる殉國の精神を顕彰し其の偉勲を永く更生に傳えんとするものである
 昭和五十一年十月十日
八九會

参考(碑文に使はれてゐる正字と対応する当用字体)
聯:連に書換え、國:国、縣:県、獨:独、團:団、盡:尽、氣:気、亞:亜、戰:戦、鬪:闘、當:当、?:強、惡:悪、處:処、傳:伝、會:会

一木支隊 鎮魂碑」碑文 (文頭に戻る)

 太平洋戦争初期の昭和十七年五月 敵の前進基地ミツドウエイ島攻略のため旭川第七師団において歩兵第二八聯隊を基幹として工兵及び輜重兵第七聯隊の各一個中隊と独立速射砲第八中隊を付した一支隊が動員され聯隊長一木清直大佐の名を冠して一木支隊と称した
 編成人員は二千三百余名
 支隊は大本営直轄となり勇躍征途に就いたが作戦変更となりグアム島に転進 同島の警備に当っていたが八月七日原隊復帰の命により航行中 南太平洋ソロモン群島ガダルカナル島で飛行場建設中の我が海軍部隊を駆逐し上陸してきた米海兵第一師団約二万に対し攻撃奪回を命ぜられた 急遽反転した支隊第一梯団九百余名は月明下同島に上陸 八月二十日夜半より中川付近の敵陣地を攻撃十数時間に及び突撃を反覆したが敵の堅陣を破れず支隊の損害甚大 ついに軍旗を奉焼して支隊長以下八百余名は壮烈な戦士を遂げた
 第二梯癘団は水野鋭士証左指揮し第一梯団の残余を併せ熊大隊と称し九月十三日 十四日川口支隊の右翼隊となり総攻撃に参加 敵戦車群に壊滅的打撃を与える等多大の戦果を挙げたが全般の作戦は成功せず大隊長以下多数の戦死者を出すに至った 以後支隊は不撓不屈の精神をもつて間断なく攻撃を続行あるいは陣地の確保に当つたほか敵の猛砲爆撃下物資並に患者の輸送に任ずる等半歳に亘り克く困難な作戦に耐え志気些かも衰えることなく任務を全うし北鎮健児の真髄を遺憾なく発揮した ガ島は赤道直下炎熱瘴癘の地に加えて食糧弾薬医薬は殆んど枯渇 その苦戦は言語に絶し翌十八年二月の撤退まで更に多数の戦死者を生じた
 茲に戦友遺族相はかり懐しの故郷に鎮魂碑を建立し一木支隊二千余柱の戦没英霊安かれと祈り併せて支隊苦闘の戦歴と武勲を永く伝え遺さんとするものである
  昭和五十六年八月二十日
一木支隊戦友と遺族の会 一木会

「慰霊 平和」碑文 (文頭に戻る)

碑文
ここに北海道近衛兵第一聯隊在隊者有志相倚り終戦五十周年を記念し戦友の霊を慰めると共に永遠の平和を祈念してこの碑を建立し近衛兵の皇室尊崇の誠心とその名誉を後世に伝えんとするものである
  平成八年五月
   北海道護国神社
     宮司 岡崎義徳謹書
附記
近衛兵第一聯隊は日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され明治七年(1874年)一月二十三日  明治天皇より軍旗を親授されて以来昭和二十年(1945)大東亜戦争の終末に至るまで皇居北の丸(現北の丸公園)に駐屯して日夜皇居の守護に任じ  大正天皇 昭和天皇が皇太子で在らせられたときそれぞれ十年の永きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である
近衛聯隊は全国の市町村から選抜された模範壮丁を以て編成された部隊であり西南 日清 日露の戦役及び日華事変には軍に従って出征して輝かしい勲功を樹て大東亜戦争に於いては帝都防衛の一翼を担った
尚 碑の上部 星に桜の紋章は近衛兵の帽章等に用いた紋章である

「旭川郷友会設立五十周年記念碑」碑文 (文頭に戻る)

 郷友

建立の趣旨
 昭和二十年八月の終戦に、國内及び海外の戦闘に派遣せられし復員将兵多数を極めたる折、一日も早き國家興隆と平和安全を守らんとする、新年篤き志の勇士相集い、昭和三十年に設立其数七百名の多きに亘りたるを以て、市内区域を支部毎に組織化し、年一回二月十一日定められたる建國記念の日の佳き日と、日本の輝く文化の象徴たる教育勅語を根幹として、日の丸の旗の掲揚をモットーとした参加者全員の式典奉読を催し数々厳粛盛会の禮に実施し、今日満五十周年を経たるは他に類例なき功績として、永劫に讃へんが為に茲に建立するに至りたり。
 紀元2665年
  平成十七年十月吉日 建立

「樺太國境標石」碑文 (横書) (文頭に戻る)

略史
 この標石は樺太(サハリン)に於ける日本國とロシア帝國との國境・北緯50度線(右側の樺太池顕彰碑に於けるN50°)に4ヶ所あった國境標石の内、東端にあった天測點、天第一號の原寸レプリカです。南側には日本國の菊花ご紋章、北側には当時帝政ロシアの紋章であった双頭鷲、両側には夫々の國の文字で建設年とNoが彫まれてあります。これの設置にあたっては、千古不斧の山岳大密林を10m巾で伐り開き、苦難の末国境を確立したという歴史的に意義のあるものでした。
 樺太は長い間日本とロシア帝国の共存共有の領土でありましたが、明8年(1875)樺太と千島列島交換条約に依りロシア領土となりました。明治38年(1905)日露講和条約(ポーツマス条約)に依り北緯50度以南が日本國領土となり、この時この國境標石が設置されました。以来昭和20年(1945)のポツダム宣言に依りソ連領土になる迄の40年間、私共の祖先40万人が血と汗を流し楽土を築きあげて来ておりましたが、太平洋戦争が終り多数の犠牲者や資産を残し幾多ノ苦難を乗り越えて帰国して来たことを後世に伝えるべく、樺太池があり樺太に縁のある殉國の英霊が、お眠りしているこの地に、これを建立致しました。

転記者註 根室市の歴史と自然の資料館には第二天測境界がある。同市のwebサイトには写真付で紹介されてゐる。樺太日露国境第2天測境界標
     こちらのサイトも参考に樺太 国境標石

「樺太・北海道池」碑文(横書) 碑文画像 (文頭に戻る)

樺太・北海道池
沿革
 この北海道護国神社は旭川の旧第七師団(現第二師団)に依り明治35(1902)年建立されました。日清・日露戦争以後大東亜戦争終結(1945年)に至る迄、お国の為に殉職された北海道・樺太に縁のある方々63,140柱をお祀りしてあります。樺太は旧第七師団に所属して居たことで、昭和の初めに第七師団の工兵隊に依り左側に当時日本領土であった南樺太・右側に北海道を形取った池を設け、その間を太鼓橋で渡り本殿に至ると云う構想に依り造られたものです。
 私共樺太に縁のある者達が樺太池を顕彰する会を発足し、樺太が日本領土であった終戦迄の40年間先祖が営々と築いてきたことに想いを寄せ、ここに祀られている樺太関係者4,272柱の御霊が樺太池と共に永久に安らかにお眠り下さることを御祈念申し上げこの碑を建立致しました
(池の図)
2004.5建立
樺太・北海道池を顕彰する会

出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.765
  2.  令和元年9月6日閲覧 寺社巡りと御朱印 ときどき現地飯 北鎮安全神社(境内社)
  3.  令和元年9月7日閲覧 かみとく日日新聞 北星駅

改訂記録
  • 令和06.04.01 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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