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豊受神社 (北海道〈釧路〉厚岸町太田)

参拝日 令和3年6月2日(水)
作成日 令和*年2月12日(土)
改訂日 令和6年2月19日(月)
よみ  とようけ じんじゃ  
所在地 〈釧路管内〉厚岸郡厚岸町太田東358 (43度5分10.05秒 144度48分27.31秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 豊受神社
祭神  豊受大神(とようけのおおかみ)
由緒  元 村社
 北海道神社庁webには次の様に載ってゐる(1)
由来 明治23年6月屯田兵2個中隊440戸(2300余人)が移住したが、新開地のため崇敬すべき神社もなく、当時の中隊長門田見陳秀・岩渕繁隆の両名及び村内有志らが発起人となり、明治24年7月遥拝所を建設し、太田屯田兵村民の氏神として豊受大神を勧請した。明治26年社号公称許可、無格社豊受神社となる。明治30年社殿を新築、昭和14年11月開村50周年記念にあたり、村社へ昇格、現在地に造営、遷座し、昭和27年宗教法人となる。昭和30年太田村は厚岸町に合併するが、当地区の氏神として現在に至っている。

雑記  最寄駅は根室本線厚岸駅が南東(141°)へ4.3kmの所にある。

 地名の「太田」は太田紋助の名に由来する。
 厚岸町webによれば、次の様(2)
 太田紋助は、弘化3年(1846年)、場所請負商人山田文右衛門の番人であった中西紋太郎とアイヌの女性シャリコトムの間に生まれ、幼少のころサンケクルと呼ばれたが、明治になって太田紋助と名乗った。早くに父を亡くし、国泰寺(3)の寺男として働き、ここで学問と農業に対する知識を身に付けた。明治2年に佐賀藩が厚岸を支配すると、紋助は藩の開墾雇となって藩の開拓を助け、開拓使時代になっても、牧畜取扱雇として開拓に奔走した。アイヌ民族に対しても私財を投げ打って農場を開き、共同経営による利益を積み立てて生活改善のための資金にするなど、同族の生活向上のために尽くした。
 太田紋助の名前が、歴史に永遠に記録されることになった事業は、明治23年の太田屯田兵村の設置である。明治8年に屯田兵制度が行われると、紋助は厚岸にも屯田兵が入植することを予期し、当時は未開であった太田地区を調査して、兵村設置にふさわしい場所として当局に報告した。こうして屯田兵村が開村し、最大の功労者太田紋助の名前を不朽のものとするために、新しい兵村は『太田村』と名付けられた。

 開拓は、食糧生産には不向きな土地なので生産性が低く、離散が多かったと云ふ。
 太田の中心部には太田屯田開拓記念館がある。次に訪れる機会があれば、寄りたい。
 当社の位置は、屯田兵村の東端だった。

 本日は、道東神社巡り最終日。根室の宿を6時16分に出発し、帯広空港から帰途につく予定。最初に訪れる予定は、釧路町の昆布森神社としてゐたが、予定を変更した。111kmを2時間30分で走る計画だったが、昨日・一昨日、そして今朝と走ってみてかなり早着しさうだと判った。そこで当社と、海岸の方にある又飯時の神社に行くことにした。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

道道14号線から参道へ入り、どんな山の中に入ってゆくのかと思ひつつゆっくり進んでゆくと、鳥居が見えてきた。

右手の車を停めてある方の道は、看板によると、野外学校等の施設があるらしい。

写真2
写真2 拡大 (1280×960)



写真3
写真3 拡大 (1280×960)



写真4
写真4 拡大 (1280×960)

社殿正面

蔭が社殿の前に出来てゐる。撮影は、07:58。社殿の向きは、ほぼ西。西の方には、太田の中心地がある。

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

斜め前からみた社殿。

写真右に土俵の一部が写ってゐる。

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

拝殿内

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

拝殿前から鳥居方を望む


出典・脚注
  1. 令和4年2月7日閲覧 北海道神社庁 北海道の神社 豊受神社
  2. 令和4年2月7日閲覧 厚岸町webの厚岸町の歴史
  3. 国泰寺 蝦夷三官寺のひとつで、本州から開拓に来た人々やアイヌの人たちへの教化、日本の領土主張及びロシア勢力の阻止といった様々な目的で文化元年(1804年)に箱館奉行の願ひ出を受け、江戸幕府11代将軍徳川家斉の命によって建てられた。現在、裏手の約13万m2の跡地は国指定の史跡になってゐる。神明社跡(のちの厚岸神社)もある。他二寺は、様似の等樹院、伊達の善光寺。
     中部千島以北に進出してきたロシアは現地人(アイヌ)にキリスト教を布教してゐた。(ウィキペディア、厚岸町webより)

改訂記録
  • 令和06.02.19 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。

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