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厳島神社 (北海道〈釧路〉釧路市米町)

参拝日 令和3年6月2日(水)
作成日 令和4年2月19日(土)
改訂日 令和6年2月18日(日)
よみ  いつくしま じんじゃ  
所在地 〈釧路管内〉釧路市米町(よねまち)1丁目 (42度58分19.04秒 144度22分20.02秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 厳島神社
・Wikipedia:厳島神社 (釧路市)
・当社HP 釧路國一之宮 厳島神社
祭神  市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
 阿寒大神(あかんのおおかみ)
 金刀比羅大神(ことひらのおおかみ)
 秋葉大神(あきはのおおかみ)
 稲荷大神(いなりのおおかみ)
 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
 海津見大神(わだつみのおおかみ)
由緒  元 県社
 北海道神社庁webには次の様に載ってゐる(1)
由来 
厳島神社の創祀年は江戸期に遡る。年次は定かではないが、幕府が東蝦夷地を直轄した寛政11年(1799)頃と思われる。記録の最初は、文化6年(1809)の『東行漫筆』にクスリ会所内に弁天・稲荷・山神が祀られていたとあり、同時代の絵図にも見える。安政4年(1859)には『弁天・阿寒・稲荷の三社美々敷立たり』とあり、クスリ会所の氏神であった。明治5年には金刀比羅大神・熊野大神・猿田彦大神も祀られていた。明治24年郷社、大正12年には県社に列せられた。

 いただいた栞には次の様に記されてゐる。
御由緒
釧路が来開草業の頃、漁場請負人佐野孫右衛門が漁場の安全と大漁祈願の為、安芸の厳島神社の御分霊を勧請奉祀したのが紀元と伝えられています。
文化二(一八〇五)年には二代目佐野孫右衛門が旧真砂町高台のアイヌ民族たちがカムイシュマ(アイヌ語・神岩の意)と呼び木幣を立てて祀っていた約四百坪の土地に神殿を造営しました。以来累年豊漁が続き、住民も年を追って増加し、遂に神社を中心として一部落を形成するに至り、住民自ら産土神と崇仰するようになりました。これは安政四(一八五七)年に函館奉行の命により全道踏破した松浦武四郎の「久摺日誌」に明記されるところです。
明治二十四年二月十日、現在地に本殿拝殿を造営し御遷座、同年五月には郷社に、大正二年五月には縣社に昇格いたしました。
昭和天皇陛下は大正十一年七月十七日に大正天皇の摂政として、また昭和十一年九月二十八日の釧路市行幸の際も釧路國社である当社を御親拝されました。釧路住民全てが氏子とされる格式あるお宮です。

 祭神について
 阿寒大神について、栞には次の説明がある。
雄阿寒岳・雌阿寒岳を霊峰とする山神さまでアイヌの神ともされています。
 また、次の説明もある。創祀或は増祀時期や経緯は分らないのかも知れない。
 「いずれもクスリ場所時代から明治初期に釧路に移住し街づくりに励んだ先人たちが国元や職業の関わりからお祀りし、今日に至ったものです。」


 境内社 御得稲荷神社(おんとくいなりじんじゃ)について
(栞の記載)
明治十二年十月、新潟県出身の須貝利吉氏の鮭漁場私祭神祠として頓化(現在の南浜町・浜町・浪花町・寿町一帯)の地に奉祀され、明治十八年頓化部落守護神として「御得稲荷神祠」と呼ばれるようになりました。平成二十六年厳島神社境内に合祀され現在に至ります。
御祭神 稲荷大神(主祭神)
    金刀比羅大神
    水天宮
御神徳 (転記略)
(境内社 御得稲荷神社社殿横の碑文)
御得稲荷神社由緒
 創建  明治十二年十月十日
 御祭神 御得稲荷大神
 御相殿 金刀比羅大神
     水天宮

新潟県出身須貝利吉経営の鮭漁場の豊漁と海上の安全を願い頓化(現在の南浜町、仲浜町、浜町、浪花町、寿一帯の地域)の浜に小祠を奉祀したのが創祀と伝えられている。頓化(とんけし)の守護神として百三十八年間寿一丁目に鎮座しておりましたが本殿を解体することになり平成二十七年十月二十七日御神体を厳島神社に合祀して、翌年祠を境内に創建しました。
 歴代宮司  初代  正木金次  二代目 伊藤松之助 
       三代目 伊藤 律  四代目 伊藤正剛
平成二十八年吉日
   旧地について
   旧地の場所:42度59分21.91秒 144度22分36.03秒 地理院地図(神社記号が未だ残ってゐる)
   googleのストリートビューには寿一丁目に鎮座してゐたころの画像が残ってゐる。
    ・2012年(平成24年)5月の画像:社殿正面社殿側面

 境内社 釧路護国神社(くしろごこくじんじゃ)について
(栞の記載)
明治四十四年七月、日露戦争戦没者(当時十二名)の霊を祀るため、米町定光寺に忠魂碑を建立しました。昭和七年九月、鶴ヶ岱公回に移転・建立されましたが、昭和四十年に社殿を厳島神社境内に創建。平成二十九年現在、合祀者約三千柱余りの御英霊が祀られております。毎月十五日には月例慰霊祭が、また八月十五日には戦没者慰霊大祭が厳島神社神職により厳粛に斎行されています。
雑記   最寄駅は北北東(20°)へ2.2kmの所に根室本線釧路駅がある。


 釧路では太平洋炭鉱が平成14年に閉山し、釧路コールマイン(株)が引継ぎ年30万トンの生産をしてゐる。令和2年には(株)釧路火力発電所が営業運転を始めたが、石炭は年に20〜25万トンとバイオマスで11.2万kWを発電すると云ふ。発電効率は55.1%で地産地消だと云ふ。(2)
 発電効率は俄には信じられないが、地産地消は運搬にかかる二酸化炭素排出は減らせる。北電では真冬に発電量が不足してゐるから貴重な発電に違ひない。カロリー当りの価格もLNGの半分以下と経済性にも優れる。出炭量の見通しも立ってゐるのだらう。順調に稼働してほしい。
 釧路では、炭鉱は閉山するし、日本製紙釧路工場は事業撤退するし、基幹産業は何だらうか。心配なところ。


 円空仏が当社にある。重陽の節句のみに拝観できると云ふ。豊浦町の洞窟に安置されてゐたが寛政十一年(1799)に像に「くすり乃たけこんげん」とある事から釧路の地に置かれるやうになったと云ふ。
 苫小牧の錦岡樽前山神社では正月と例大祭に公開しレプリカを市の博物館に展示されてゐた。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

社号標
・向って左は「縣社嚴島神社」、
 側面に「北海道釧路市鎮座」「陸軍中將三宅一夫書」、
 背面に「奉獻 昭和十一年九月十日 氏子總代人 渡邊□七」
・右は「釧路護国神社」、
 側面に「北海道知事 町村金五謹書」、
 背面に「昭和四十五年八月三日建立」とある。

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

社殿正面

向って右への舗装は、護国神社(写真6)への道

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

社殿正面

現社殿は昭和二十七年に造営された。

写真4
写真4 拡大 (1280×710)

社殿側面

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

拝殿内

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

護国神社

社殿に向って右前に「明治天皇御製」碑がある
 「戦いの庭に斃れしますらをの魂は御國をなほ護るらむ」
 背面には「奉納 昭和四十五年八月吉日 釧路市遺族会 釧路地区連合遺族会」

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

斜め前からみた護国神社

 向って左手の建物は本社(写真3)の一部

写真8
写真8 拡大 (1280×960)

境内社

向って
 左は稲荷社(鳥居の根本が残ってゐる)、
 中央は御得稲荷神社、
 右は龍神

写真9
写真9 拡大 (1280×960)

境内社 御得稲荷神社(写真8の中央)

写真10
写真10 拡大 (1280×960)

行啓記念碑 写真右は表、左は背面。社殿に向って左手奥(ここから港が見える)にある。

表の書は「海軍大将有馬良橘(りょうきつ)敬書」とある。有馬良橘は明治・大正・昭和天皇の信任篤く、明治神宮宮司も務めた。

背面には「奉迎 攝政宮殿下 大正十一年七月十七日」とある

御朱印(本社)
御朱印(本社) 拡大 (1380×960)

「紫陽花」とあり、参道には青い紫陽花の造花が飾られてゐた。月末までに咲くのだらうか。社頭に近い民家では桜が満開だった。

御朱印(護国神社)
御朱印(護国神社) 拡大 (675×960)

御朱印(龍神)
御朱印(龍神) 拡大 (675×960)

御朱印(御得徳稲荷)
御朱印(御得稲荷) 拡大 (660×960)


出典・脚注
  1. 令和2年2月9日閲覧 北海道神社庁 北海道の神社 厳島神社
  2. 令和2年2月19日閲覧 釧路市webの釧路の炭鉱

改訂記録
  • 令和06.02.18 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。

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