よみ
あばしりじんじゃ
| 概要
| 北海道網走市に鎮座。文化九年(1813) 近江の人藤野四郎兵衛が網走川口に弁財天創祀し漁場の鎮護とした。明治期に村落形成のため網走地方鎮守の氏神となった。何度かの遷座を経て明治19年に現在地に官幣中社巌島神社の御分霊を迎へて現在地に鎮齋。県社に列格。北見国一之宮。
境内社の網走護国神社は、日露戦役後に網走神社境内に建てられた忠魂碑が始りで、招魂社を経て護国神社となった。英霊705柱を祀る。
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所在地
| 〈オホーツク管内〉網走市桂町2丁目1番1号
北緯 44度0分56.52秒 東経 144度16分12.59秒
地理院地図(ズームレベル15)
マピオン(ズームレベル16)
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地図
| 参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
・東西290km 南北270km
・+印:当社位置
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・東西145km 南北144km
・+印:当社位置
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・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
・○印:本殿の位置
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HP等
| ・北海道神社庁 北海道の神社 網走神社
・Wikipedia:網走神社
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祭神
| 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
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由緒
元 県社
境内には、由緒略記が掲示されてゐる。次の様。(正字体は現在使はれてゐる字体に置換へた)
網走神社由緒略記
北海道網走市桂岡鎮座
田心姫命
祭神 市杵島姫命
湍津姫命
右祭神は宗像三神と称へ旧官幣大社宗像神社旧官幣中社厳島神社と同一神にして多く海岸に鎮座し福寿円満海上守護に神徳を垂給う
本道内には同祭神奉斎の神社は釧路留萌両市の厳島神社を始め三十余社を算す
由緒
当神社は文化九年近江の人藤野四郎兵衛氏が網走川口に小祠を建て漁場鎮護の為に奉斎せるを以て創祀とす
明治に至りて来住者村落を形成するに及び藤野家に請うて、網走地方鎮守の氏神と仰奉る 明治十九年八月現今の図書館の地に次いで二十二年七月「ニクル」の高台に移転修築す 明治四十一年現在の社地に新たに社殿を造営し官幣中社巌島神社御分霊を奉迎鎮斎し、九月無格社に大正十二年五月郷社に、昭和四年本殿以下大造営成り同九年八月八日付県社に昇格 昭和二十一年二月二日社格を廃止し神社本庁所属神社となる。
全北見沿岸住民の崇敬厚く古くより北見国一之宮と称せらる
例大祭
八月十四日、十五日、十六日三日間 御輿陸海上渡御
氏子崇敬者
戸数約六千五百戸
昭和二十三年八月七日 建立
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北海道神社庁誌には次の様に記されてゐる(1)。
由緒 当神社祭神は宗像三神と称する元旧官幣大社宗像大社、旧官幣中社巌島神社と同一祭神にして多く海岸に鎮座し福寿円満、海上守護に神徳を垂れ給う。当神社は文化九年(一八一三) 近江の人藤野四郎兵衛が網走河口に小堂宇を建て漁場鎮護の為に奉斎せるを以て創祀とする。明治に至りて来住者村落を形成するに及び藤野家に請うて、網走地方鎮守の氏神と仰奉る。明治十九年現今の網走警察署の地に、次いで同二十二年七月「ニクル」の高台に移転修築す。明治四十一年現在の社地に新たに社殿を造営し官幣中社巌島神社の御分霊を奉迎鎮斎し、 九月無格社に大正十二年五月郷社に、昭和四年本殿以下大造営成り同九年八月八日付県社に昇格、昭和二十一年二月二日社格を廃止し神社本庁所属神社となる。全北見沿岸住民の崇敬厚く古くより北見国一之宮と称せられる。昭和二十一年二月二日宗教法人となる。
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【境内社】
網走護国神社境内に由緒を記した碑がある。碑文は次の様。
網走護國神社由緒略記
明治三十九年十一月九日 日露戦役に従軍し名誉の戦死を遂げられた故陸軍歩兵上等兵藤尾辰蔵之命他六柱の偉勲を永遠に讃える為時の町長佐藤信吉殿と帝国在郷軍人分会長高松松次郎殿と相計り第三軍司令官陸軍大将乃木希典閣下の揮毫を得て忠魂碑を網走神社境内に建立す 明治四十二年三月網走神社旧拝殿の譲渡を受け招魂社殿として祭事を司る
昭和十二年支那事変勃発に依り奉祀すべき祭神も多数を加うるに至れるを以つて時の町長大橋干次郎殿と聯合分会長廣川六次郎相計り町有志多数の賛同と浄財を得て昭和十三年十月此の地に本社殿を新築し英霊安鎮の誠を捧げ忠魂碑に遺品を納めて長く顕彰を期し今日に至る
昭和五十年九月建之 奉納 廣川六次郎
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網走護国神社境内には七福神石像と中川稲荷神社がある。七福神の由緒掲示があり次の様に記されてゐる。
七福神の由来
網走神社の前身は又十藤野家の弁天社でこれを氏神として譲受けた後に厳島神社より全国唯一の御分霊社の認可を受け、茲に県社北見国一の宮となった 昭和の初め、神社総代有志相謀り次の七ヶ所に七福神を創祉した。
一、弁財天 (桂ヶ岡) 居串栄治
二、大黒天 (御野立所)新谷順平
三、恵比寿神(最寄浜) 田邊村次
四、寿老人 (向陽ヶ丘)木下八郎衛門
五、毘沙門天(大曲明神山)伊谷平太郎
六、布袋神 (不動山) 中川国蔵
七、福禄寿神(天都山) 林 好次
行程三里(十二キロ)を春秋二回集団で七福神巡りを行なったが当時年中行事として名物であった。
戦後三十年、放置されたままになっているのを憂い、昭和五十六年六月十日網走寿大学十五周年記念事業として護国神社境内内に復元合祀したのである。
石材彫刻者 藤原禎一
工事責任者 森 英之
製作 網走寿大学十五周年記念事業
奉祭 網走七福神奉賛会
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| 雑記
| 最寄駅は、釧網本線の桂台駅で当社から東北東へ0.3km、主要駅では、石北本線・釧網本線網走駅駅で西北西(度)へ1.4kmの所にある。網走市役所北北東へ0.6kmの所にある。
気になることを調べてゐると、次から次へと出てくる。当社と関係ないことも含めて、とりとめなく記した。
- 鎮座地について
由緒には「明治十九年八月現今の図書館の地に」(境内掲示)、「明治十九年現今の網走警察署の地に」(北海道神社庁誌)、と記されてゐるが、令和5年現在で云ふと何所なのか調べてみたが結論は出せなかった。少なくとも「図書館は平成12年11月に新築移転して」網走川に架かる中央橋左岸側(44度1分24.70秒 144度15分46.22秒 地理院地図)にあるが、ここでは無いだらう。
- 例祭日 元は旧暦の8月15日だった。鱒漁から鮭漁に移る漁閑期が一つの区切りとして選ばれた結果だろう(2)と云ふ。
- 藤野四郎兵衛 初代藤野喜兵衛(3)は近江の商人で、四代目藤野四郎兵衛の次男。文化14年(1821年)には余市、宗谷・枝幸・常呂・網走・紋別・斜里場所などに加へ千島、国後場所も請け負ひ松前有数の豪商だった。文政9年(1826年)、本家である6代目四郎兵衛家を継いだ。
藤野四郎兵衛・藤野喜兵衛・何代目が整理しきれない。
文化9年(1813)に網走川口に小社を建てたのは初代藤野喜兵衛で、後、藤野四郎兵衛と改名したと理解した。
- 毘沙門天・中川稲荷神社 護国神社境内に木造の小さい社がある(写真10参照)。護国神社社頭に「護国神社毘沙門天」と記した柱標があるので一時は毘沙門天社と判断したが実際は中川稲荷神社だった。webサイト『飲兵衛親父の独り言』の「網走神社」(4)には、
宮司に聞いてみたところ「中川社」といって故中川イセさんが車止内に作ったもので取り壊す際に移設したらしいです。
そういえば子供のころ赤神社と呼んでましたね。
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と記してゐる。
また、網走神社フェイスブック(5)には、
網走護国神社境内にある中川稲荷神社の例祭を斉行いたしました。
中川稲荷神社はもともと錦町にあったもので、中川イセさんがとても大切にお祀りしていた神社です。
イセさんがたくさんの方をお招きし大変賑やかにお祭りをしていたのが思い起こされます。
その当時と変わらず6月15日にお祭りを御奉仕させていただいております。
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とある。
毘沙門天とは何をさすのだらう。
- 向陽ヶ丘病院 中川イセさんが誘致を働きかけたと云ふ(6)。病院は、網走川左岸段丘上にある。
- 段丘崖 父が転勤で向陽ヶ丘病院(当時は道立)敷地内に住んでゐた頃のこと、冬休みに帰省した際、迎へに来てくれて網走駅から車で坂道を登って行った。スパイクタイヤをはいてゐた頃だが、滑りさうで怖かった。今地図を見ると、段丘崖を登ってゐたのが判る。今回は6月なので難なく登ったが、冬は住民の方々は安全に通行出来ているのだらうか。
- 水族館 地図には水族館が見当らないと今回の旅行前に訝しく思ってゐたが、平成14年に閉館してゐた。平成12年と思ふが、クリオネを見たことがあった。今となっては、地図上で何所にあったのか判然としない。二ツ岩の方(市街からは北の方)としか。
- 友好都市 2005年(平成17年)神奈川県厚木市と友好都市提携。
- 北見町について かつて、網走市中心部にに北見町があった。
webサイト網走探訪(7)によると、
明治2年(1869)に探検家の松浦武四郎が、斜里から宗谷、利尻、礼文までのオホーツク沿岸を、北見と名づけようという意見を出しました。この地方を北海岸とよんでいたことと、カラフト島が見えたからです。武四郎の考えを入れた明治政府は「北見国」と命名し、郡名を決めました。 そして、明治14年(1881)に市街地となる区域を「北見町」としました。ほかに、南裏、南、北の通り名と丁目を決めました。 ですから、この場所は「北見國網走郡北見町中通一丁目」なのです。
北見町は、この地方の開拓のために移住してくる人たちにとって、郡役所のある中心の町であり、オホーツク発展の要であり出発点だったのです。
その後北見町は、明治35年に網走町発足前に統合されましたが、大正14年(1925)までは大字名として使われていました。
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網走市webの年表には網走町発足前の網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)についての記述は無い。北見町には関心が無いのかな。網走町のその後は、大正10年に女満別村(元の網走村、最寄村の各一部域)、昭和22年東藻琴村(元の網走村、新栗履村、藻琴村、娜寄(なよろ)村、濤沸(とうふつ)村の各一部域)が分立し、両者は平成18年に合併し大空町となってゐる。
尚、現北見市は、野付牛町が昭和14年(1942)に市政施行し北見市と名を変へ、平成18年(2006)に端野町・常呂町・留辺蘂町と新設合併した。
- オホーツク総合振興局 地方自治法でいふ都道府県の「支庁」にあたる。道庁の出先機関として網走支庁が置かれてゐたが、平成22年(2010)に、条令によりオホーツク総合振興局とした。ロシア語地名を役所の名称にするとは、ロシアの北海道侵攻の口実に一役買ふとは思はないのか、と不思議に感じる。さらに、アイヌを実質先住民族に位置づけるなど助長してゐる。松浦武四郎が名づけた北見(現在は元の野付牛町の新市名であり、網走市中心部の旧町名でもあったと云ふ歴史的背景も踏まへて)としても良かったと思ふ。文字にすると5文字になり場所を取るし、総合振興局を略すとロシアの地名ともなる。(当サイトは、神社訪問記なので断らない限り日本のオホーツクは自明と考へます。)
オホーツク振興局管内の人口は26万人台(令和5年2月)で、私の住む厚木市人口は22万人台と近い。一方、面積は10690km2と94km2と110対1の大差がある。それでゐて、オホーツク管内で御朱印を頂けた神社は、24社にのぼり、神社を大切にしてゐる一つの現れかと思ふ。
四泊五日の神社巡り
令和4年6月8日から12日の5日間、オホーツク総合振興局管内を中心に50社を巡ってきた。
本日からしばらく、北海道の神社参拝記掲載が続く。
初日は札幌駅6時56分発の特急オホーツクに乗り、網走駅には12時17分定刻に着いた。374.5kmを5時間21分、表定速度70.0km/hであった。札幌からはバスも運行されてゐて、所要時間は1時間余計に掛るが本数が多く、運賃の安さなどで利用者はバスに流れてゐるのだらうか。私は、バスのなかで本を読むのは辛いので鉄道を利用したい。
上川─遠軽間はいくつもの駅が無くなって時を感じさせられた。また、車両の外装が傷んでゐて老朽化してゐるのがありありだった。更に、終着網走駅で降りた乗客の少なさは、閑散期とは云へ過疎化や高速道路の延伸で鉄道経営の厳しさも感じた。令和5年3月には、より新しい車両に置換へられたが、編成は1両短くなった。振子を使へれば、所要時間を30分短縮できさうだが。
駅を降りて、レンタカーを借り、出発。本日は当社を最初に、5社を訪れ、網走図書館で調べ物をして、市内のホテルに泊る予定。
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