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鱒浦稲荷神社 (北海道〈オホーツク〉網走市鱒浦)

参拝日 令和4年6月11日(土)
作成日 令和5年9月30日(土)
よみ  ますうら いなり じんじゃ
概要  北海道オホーツク総合振興局管内弘網走市鱒浦に鎮座する。第六代藤野喜兵衛が弘化三年以後安政三年前に魚場の鎮護のため網走川口に創祀した。明治26年に藤野牧場が開始され、同30年頃に当地に遷座した。 (神社庁包括外社)  
所在地 〈オホーツク管内〉網走市鱒浦2丁目18-2-3
  北緯 43度59分13.62秒
  東経144度17分31.71秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 グーグルマップ(ズームレベル14)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
 
HP等  ─
祭神  宇迦之御魂大神
 佐田彦大神
 大宮能売大神
 田中大神
 四之大神
由緒  旧社格 該当無し(未公認社)

 一の鳥居脇に由緒が掲示されてゐる。次の様。
鱒浦稲荷神社由緒
御神名 正一位稲荷大明神
祭神 宇迦之御魂大神
佐田彦大神
大宮能売大神
田中大神
四之大神
御神徳 精神(福徳円満) 命(心神健全) 生活(家内安全) 生業(商売繁盛) 生産(大漁豊作)の守護を垂給う
由緒 鱒浦神社は天保三年(一八三二)松前城下某紋藏氏に当時の本宮祠官鳥居南和泉守より分霊が授けられたものを第八代藤野四郎兵衛(第六代喜兵衛(1))は漁場の鎮護のため守護神として網走川口(網走一番地)に社祠(二間×六間)を建て(弘化三年以後安政三年前)之を奉斎せるを以て創祀とす
文久四年七月(一八六四)に同所に再建されたが明治二十六年藤野牧場が開始され仝二十九年山形県より小作五戸を移住するに伴い「牧場の拡張に伴って多数の人員収容するに付き場内の台地に稲荷神社を奉置し、毎年二回祭礼を挙行し家内安全豊作豊満を祈り傍ら場員年中の労を慰撫する」ため社殿(四坪)をここに建て網走にある稲荷の神璽を遷座奉斎されたのである
明治末期より大正初期にかけて次第に部落が形成されるに至って鎮守の氏神として仰ぎ奉るに至ったものである
網走市有形文化財絵馬
当神社には海上安全の祈願と大願成就の感謝の印として奉納された(弘化二年以降)船絵馬は昭和五十四年二月十日市文化財第一号として指定される
祭事 春祭 四月十五日
例祭 九月十四日宵宮祭 十五日本宮祭

 絵馬については、社殿前に次の説明が掲示されてゐる。
有形文化財
鱒浦稲荷神社絵馬

弘化二年(一八四五年)から明治八年(一八七五年)の間に奉納された五面の絵馬は当地方の場所請負人藤野の守護神であった鱒浦稲荷神社に人々は豊穣と本道でも最も遠い地方に位置した当地への航海の安全と大願成就の感謝のしるしとして船絵馬が奉納された 本道における手がき注文による船絵馬は極めて少なく珍重に値する
 昭和五十四年二月
網走市教育委員会

 一の鳥居の脇には「頌徳碑」農林大臣山崎達之書(?)が建ってゐる。碑の上部には「農爲國本」(2)とある。碑文は以下の様。(漢字は字体の大きく異なる場合のみ正字で記した。□部分は読取れなかった)
北見開拓ノ祖藤野家ハ江州日枝ノ住世々農漁業ヲ営ミ地方ノ豪族ヲ以テ鳴ル綿榮十一代三百三十有六年當主隆三氏幼ニシテ父祖ノ淑氣ヲ稟□□資英邁時態ニ練達シ事ニ莅ンテ果断富貴ニ驕ラス至謙至譲徳ヲ積ミ仁ヲ累ネ挺身農ヲ勤ム人皆悦服ス網走農場ノ前身タル牧場ハ明治廿六年ノ創立ニシテ畜牛ノ育成ヲ専ラニス大正二年五月之ヲ農場ニ革ムルヤ逐□入場者増加シ今ヤ九十三戸畑九百五十餘町歩ノ力耕ヲ見ルニ至ル各自實力ノ充實ハ町勢ノ進運政府ノ施設奨勤ト相俟テ遂ニ自作農創設ノ要望トナリ昭和十一年委員ヲ挙ゲ親シク其ノ真情ヲ披瀝スルヤ氏欣然快諾同十六年時恰モ皇紀ニ千六百年ヲ以テ決定同十八年六月ニ至リ権利移轉ノ登記ヲ了シ悉ク自作農ヲ確立ス是レ偏ヘニ氏ガ達識寛恕ノ賜ナリ部民之ニ感激シ乃チ略大綱ヲ挙ケ之ヲ石ニ銘シ永ク其ノ懿徳ヲ敬慕ス
 昭和十八年十月吉日樹碑
    無□ 山崎稚司撰并書

参考  北見:北海道北東部に位置し、オホーツク海に面した地域  江州:近江國・現滋賀県  日枝:かつて滋賀県愛知郡に日枝村があった  淑気 :新しい年を迎え、天地山河いたるところに瑞祥の気が満ちてゐること  莅ンテ:のぞんで  乃チ:すなはち  懿徳:いとく、りっぱな徳。ちなみに第四代天皇は懿徳天皇。
雑記  最寄駅は釧網本線の鱒浦駅で南南東へ0.6km余の所にある。鱒浦駅は大正13年開業、釧網線の全通は昭和6年。網走駅は北西へ4.7km(道程 7.2km)にある。 
 市役所は北北西へ4.0km(道程5.3km)の所にある。

 当地は、寛政二年(1790)からはシャリ場所の一部で、安政6年(1859)からはアバシリ場所の一部となった(3)。明治初年にヱチャヌエ村、明治八年にはイサニから勇仁村と漢字表記となった。明治35年には北見町、網走村、新栗履村と合併し網走町となった(4)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 鳥居は、鱒浦神社氏子一同により平成二十二年七月二十九日奉納。十五名の氏名も記されてゐる。
 鳥居に向って右に由緒掲示、更に右側に藤野家の頌徳碑がある。

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 境内
 階段を登り終ると一対の狛犬があり、右手に社殿がある
 狛犬は、平成二年九月八日の年記と個人名が刻まれてゐる
 鳥居は、「鱒浦神社建設委員会」「昭和五十三年九月吉日建之」とある

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 斜めからみた社殿・鳥居
 社殿に向って右に絵馬の説明が掲示されてゐる

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿側面

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 社殿前から見た様子
 建物は社務所

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 階段上から下を見下ろしたところ


出典・脚注
  1. 藤野喜兵衛は、江戸時代中期に蝦夷に進出した商人。余市場所、後に宗谷・斜里場所、千島国後場所、根室場所等を請負った。五代藤野四郎兵衛の弟藤野喜兵衛が初代。喜兵衛の名は七代目が隠居した明治18年に廃止された。い令和5年**月**日閲覧  
  2.  「農爲國本」は、なじみのある言葉だが、改めてしたべてみた。
     玉川学園の農為國本によると、 「唐の李世民(りせいみん/598年〜649年)の4巻11編よりなる『帝範』の第一編「務農」の一節に“夫食為人天、農為國本”(それ食は人の天たり、農は国のもとたり。)とある。農業は国家の基本であり、国家の土台となる大切なものであるという意味である。」と云ふ。李世民は唐朝の第2代皇帝太宗(たいそう)で、世民(せいみん)は諱。
  3. 令和5年9月26日閲覧 コトバンクのアバシリ場所 
  4. 令和5年9月26日閲覧 コトバンクの勇仁村 

改訂記録
  • 令和06.01.23 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)
  •  〃    27 配置再修正

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