ホーム北海道 > 北見市

端野神社 (北海道〈オホーツク〉北見市端野町)

参拝日 令和4年6月11日(土)
作成日 令和5年9月18日(月)
よみ  たんの じんじゃ
概要  北海道オホーツク総合振興局管内北見市端野町に鎮座する。明治三十年に端野屯田兵村に入地があり、三年後に仮宮を建設して例祭を始めたのが創建。昭和二年に創立許可を受け、昭和十七年には村社に昇格した。  
所在地 〈オホーツク管内〉北見市端野町二区470番地
  北緯 43度51分48.37秒
  東経143度56分46.14秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 グーグルマップ(ズームレベル14)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
 
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 端野神社
祭神  天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
由緒  旧社格 村社
 北海道神社庁誌(平成11年)には次の様に載ってゐる(1)
由緒 明治三十年六月七日、翌三十一年九月移住の屯田兵村は、当時屯田兵第四大隊第一中隊と称し、戸数二○○戸が兵役を兼ね開拓に従事した。開拓三年目に屯田兵一同の願出に依り祭神の協議を謀り大隊長陸軍歩兵中佐小泉正保(2)の命を奉じ、代表が伊勢神宮に参籠し、明治三十三年八月仮宮を造営し、九月十五日例祭を執行したのに始まる。昭和二年四月創立許可、同十七年五月昇格、現社殿は昭和十二年三回目の改築による。

 境内の掲示(昭和53年寄進)には次の様に記されてゐる。
端野神社御由緒
一、御祭神 天照皇大神
一、由緒
端野町は明治丗年六月七日 翌丗壱年九月移住の屯田兵村にして 當時屯田兵第四大隊第一中隊と稱し 戸数二百戸兵役を兼ね開拓に従事す
開拓三年目に屯田兵一同の願出に依り祭神の協議を謀り 大隊長陸軍歩兵中佐小泉正保殿(2)の命を奉じ 代表が伊勢神宮に参籠し明治丗参年八月假宮を建設し 九月十五日例祭を執行せしに始まる
昭和二年四月創立許可仝十七年五月昇格 現社殿は 昭和十二年 三回目の改築による
一、昭和五十二年現在氏子數約 壹阡四百戸

 このほか、端野町歴史年表(3)に「大正12年 端野神社が現在地に移転」とある。
雑記  最寄駅は石北本線端野駅で南へ1.4kmのところにある。端野駅は網走本線(池田─網走間)延伸開業に伴ひ開業(大正元年)。 
 市役所は当社から南南西へ8.9kmの北見市内に、端野総合支所(元町役場)は当社から南南東へ0.4kmの所で屯田の杜公園内にある。

 境内の石像物は狛犬や複数の灯籠などあったが、隣接の屯田の杜公園に石碑が多くあり足がそちらへ向き、当社の写真が少なくなってしまった。
  狛犬 昭和三年十一月に端野青年団の方が奉納
  灯籠 社殿近くにある一対は、社務所新築記念 平成十九年六月吉日とあり、由来が次の様に刻まれてゐる。
石燈籠の由来 此の地にあった旧石燈籠は大正四年十月少壮團より御大典記念として奉納になり、建立以来九十有余年の風雪に耐へしが、平成十六年九月大型台風の倒木により破損。平成十八年氏子の総意により建築した社務所新築記念として再建した石燈籠であります。

 参考  燈:灯  團:団



屯田の杜公園内の掲示物・石碑
 
掲示物
(1)屯田の杜公園(横書)
 この公園は、明治30・31年(1897・98)に入植した屯田第四大隊第一中隊の本部があった場所であり、本部、事業場、練兵場などの関係する施設がありました。
 その後、ここに端野小学校、端野中学校が設置され、屯田開拓風致地区にも指定されています。
 現在では、屯田兵や学校を偲ぶ各種の石碑とともに、歴史民俗資料館、図書館、農業者トレーニングセンター、公民館、役場などの公共施設が設置され、新たな中心地ともいえます。
 また、水が流れるウォーターパークや、開拓時の面影を残す鎮守の森があり、こどもから大人まで、人々の憩いの場として親しまれています。

石碑
(2)開村記念碑(大正八年建立) 碑文は四百字ほどの漢文で二十字程が風化で消えてゐるが大要は判る。

(3)開村記念碑(昭和二十二年) 碑文 
明治三十年六月北海道屯田兵第四大隊第一中隊此の地に屯設せらるるや同年六月並びに翌年九月の二期に亙る募兵各々百戸の入地に依り本村開拓の鍬钁下せり 當時樹木鬱蒼として荊莿大地を覆い白晝熊羆の跳梁を見る等 開拓の難事言語に絶せり 爾来先人汗滴の星霜を経て現在戸数千三百美田良圃六千町歩に及ふ殷盛を見るに到る 感慨洵に無量なり 今茲に開村五十周年を記念するに當り一章を刻して草創回顧の因となし又後人の徴と為す所謂なり 大正八年六月建設せる開村記念碑の題字は陸軍大将従二位勲一等功二級子爵大迫尚敏閣下(4)の揮毫を轉刻す
  昭和二十二年六月七日    端野村屯田會
参考 読み・意味 钁:くわ  鍬钁:しょうかく、大小の鍬  洵に:まことに
漢字対照  當:当  晝:昼  轉:転

(4)屯田兵練兵場跡 標柱  開村記念碑(昭和二十二年)の背後にある

(5)忠魂碑(写真8参照) 碑文
忠魂碑建立梗概
吾郷薫恒憶殉国先□深□
蓋傳芳烈留令聞者使萬代
後昆憧憬□英霊叺為護國
鎮家之基也為大正十一年
七月 皇太子裕仁親王殿
下 本道行啓及本年御成
婚記念茲建設忠魂碑維帝
國在郷軍人會端野分會攸
企劃而課本村有志輙得賛
同募財全村篤志衆庶争先
資倐豊本村元屯田兵出身
恩給拝受者助工事進業快
速無些凝滞茲告落成示堪
欽快即述梗概叺記永遠焉
大正十三年九月十五日
帝国在郷軍人會端野分會
参考 (同じ行に対応してゐます)
□:判読出来ず(他も同じ)
傳:伝
叺:判読不確か





劃:画、輙:すなはち、いつでも、たやすく

倐:たちまち


叺:判読不確か

會:会


(6)忠魂碑についての碑 碑文(横書)
 右の忠魂碑は 大正13年にこれを建立し、昭和27年一部修理を施したが 40年を経た現在風雪による破損甚だしく、建立当時赤誠をもって奉仕された方々の氏名の彫刻もまたくずれ落ちるなど、到底これを見るに忍びず、ここに先人の意を体し全町民の熟誠溢るる拠金により、総工費349800円を投じて改修を完工することができた。
 しかし施行に当り将来の破損を防ぐ方法として、その構造を改めたため当時の寄附者の御芳名をもとの位置に刻むことができなかったので別にこの碑を建て当時の記録を永く止めることにしたのであるが、改修当時既に破損散逸して解読し難く復元し得なかった30数名を記□できなかったことは甚だ遺憾とするところである。
 昭和38年9月
祖霊社奉賛会   郷友会

(7)加藤弥四郎翁像 碑文
翁は伊勢桑名に生れ明治三十一年六月に令兄金七氏が屯田兵として本町に入植の際は未だ十才なるも刻苦して開墾を扶く二十五才独立 具に辛酸を嘗む昭和二十二年村会議員に当選翌年議長に推されてより実に十七年間を民主議会の運営と育成に盡瘁さる 翁はまた信念の人町政に対しても侃々諤々実践躬行町勢の伸展に竭くさる 茲に翁の徳を敬慕する同志相寄り之を建て永くその功を後代に傳える
 昭和四十一年八月
端野町長中澤廣
扶く:たすく  具に:つぶさに  盡瘁:尽瘁、じんすい、自分の労苦を顧みることなく全力を尽くす意  躬行:きゅうこう、自ら行ふこと  竭:つくす  傳える:伝える
像の作者は坂坦道(さか たんどう)と云ふ

(8)屯田開拓顕彰像  像に加へて「先人の偉業を讃える」と北海道知事町村金五の書がある。碑背には屯田兵氏名が列記されてゐる。 こちらの像も坂坦道(さか たんどう)作。

(9)屯田開拓風致地区 の碑 碑文は以下の様
端野町の開拓は明治三十年六月七日北辺の防備と開拓の任を帯びた屯田兵一00戸がこの地に入地 ここに屯田歩兵第四大隊第一中隊本部が置かれたことにはじまる
続いて翌三十一年にも屯田兵一00戸が入地 昼なお暗い千古未開の地に開墾耕稼に励み兵役の任を完うして本町開拓の礎が築かれた  当時このあたりには練兵場があり林の木陰では野外学科なども行なわれた 今もなおしつかりと根を張つて繁るヤチダモなどはその頃からの原生木である

(10)開発功労者之名碑  平成十八年建立 74名の氏名が記されてゐる。


【端野】について  平成18年に端野町は、北見市他と合併し、北見市の一部となってゐる。
  • 人口等  人口:1998名(令和5年8月末)(5)  面積:163km2
  • 産業   畑作(小麦・馬鈴薯・甜菜・豆類・玉ねぎ等)中心
  • 沿革
    • 明治25年 端野駅逓設置
    • 明治30年 屯田兵100戸入植、翌年も100戸入植
    • 明治42年 野付牛が二級町村制の野付牛村となる
    • 大正元年 端野駅開業(網走本線(池田─網走間)延伸開業に伴ふ)
    • 大正10年 端野村が野付牛町から分村(当時の人口 4764名)
    • 昭和7年 石北本線開通
    • 昭和36年 町制施行(前年の人口 8193名)
    • 平成18年 北見市、常呂町、留辺蘂町と新設合併し、北見市となった
  • 端野の神社 元の端野町(現北見市端野自治区)内には、国土地理院地図に神社記号のある神社は当社の他に五社ある。(6)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 鳥居は昭和参拾七年六月吉日の奉納

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 参道
 

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿 正面

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿 斜め前

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 社殿 本殿部分の側面

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 拝殿内部

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 拝殿前から鳥居方を望む

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 祖霊社 ほか (屯田の杜公園内)
 当社の鳥居に向って左手(南)に、祖霊社への入口があり灯籠一対(端野村遺族会奉納)を備えてゐる。

 中央の建物が「端野町祖霊社」、向って右に大正八年建立の「開拓記念碑」、その右手前に昭和四十一年建立の「加藤弥四郎翁像」(顕彰碑)(雑記欄に碑文あり)がある。

 祖霊社に向って左側に「忠魂碑」(雑記欄に碑文あり)がある。その左奥に日露戦争での1名をふくむ152名の名を記した「戦没者之名碑」と忠魂碑修復・改製の経緯を記した碑(雑記欄に碑文あり)がある。
 経緯の碑は昭和38年のものだが、戦没者之名碑は結構新しく、忠魂碑も修復が施されてゐる。忠魂碑の書は、元帥子爵川村景明(6)

御朱印
御朱印 拡大 (680×960)
 


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.595-596
  2. 小泉正保は屯田歩兵第4大隊長を務め、根室の和田から野付牛に移ってきた。和田への屯田兵入地は東兵村は明治19年、西兵村は明治21・22年。和田兵村は明治29年廃村、明治30年後備役となり、大隊本部は野付牛へ移転した。野付牛に屯田兵が入植したのは明治30年。大正8年建立の開村記念碑碑文(大正七年)には根室國和田村から第四大隊本部が移った由記されてゐる。
     小泉正保の経歴については、Wikipediaの
    参照。
  3. 令和5年9月14日閲覧 北見市web内 端野町歴史年表
  4. 大迫尚敏は、第七師団師団長を明治33年4月から明治39年7月迄務めた(永山武四郎の後任)。日露戦役には第七師団からの動員があった。大迫尚敏についてはWikipedia大迫尚敏参照
  5. 令和5年9月14日閲覧 北見市web内 北見市最新人口統計の町丁別人口世帯数(令和5年8月31日現在)(.xlsx形式)より
  6. 令和5年9月15日閲覧   端野自治区(元の端野町域)内の神社  国土地理院の神社記号のある位置とグーグルマップによる社名などの確認結果。(神社庁包括下社(当社)を除く)

      社名  (地名) 緯度経度      読み
    • 忠志神社(忠志) 43度55分27.07秒 143度58分01.55秒 ちゅうし
    • 北登神社(北登) 43度55分46.63秒 143度53分20.56秒 ほくと
    • 緋牛内神社(緋牛内)43度52分57.55秒 144度00分06.65秒 ひうしない
    • 協和神社(協和) 43度50分48.30秒 143度58分51.47秒
    • 川向八幡神社(川向)43度49分38.51秒 143度57分04.48秒 かわむかい
  7. 令和5年9月15日閲覧 ウィキペディア(Wikipedia)川村景明によると、川村景明は、日露戦役では鴨緑江軍司令官として参加、大正8年12月から帝国在郷軍人会会長を務めてゐる。
     屯田兵制度は明治37年に廃止となったが、日露戦役に際して後備役兵として第七師団(時の師団長は大迫尚敏)に招集され、乃木希典大将が指揮を執る第三軍に所属した。(当地出身者の参戦者数は判らなかった)

改訂記録
  • 令和06.01.24 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)
  •  〃   27 再修正

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)

inserted by FC2 system