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訓子府神社 (北海道〈オホーツク〉訓子府町)

参拝日 令和4年6月11日(土)
作成日 令和5年8月20日(日)
よみ  くんねっぷ じんじゃ
概要  北海道オホーツク総合振興局管内訓子府町に鎮座する。祭神は天照大御神。
 ・明治44年、創祀。現在の境内地に小祠を設けた。
 ・昭和10年、神社は公認された(無格社)。
 ・昭和16年、村社に昇格  
所在地 〈オホーツク管内〉訓子府町仲町54番地
  北緯 43度43分30.66秒
  東経143度44分12.51秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 グーグルマップ(ズームレベル14)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
 
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 訓子府神社
祭神  天照大御神
由緒  旧社格 村社

 北海道神社庁誌(平成11年)には次の様に載ってゐる。(1)
由緒 明治三十年北光社移民団十一戸が入植し明治四十四年十一月三日現在の境内地に小祠を創建鎮座した。大正十五年六月十五日には拝殿を造営し、昭和十年十二月十八日無格社となった。昭和十五年幣殿を造営し、昭和十六年十二月二十二日村社に昇格、昭和十七年一月神饌幣帛供進神社に列した。北海道庁長官 昭和十七年本殿造営 昭和二十一年五月二十八日宗教法人設立、昭和五十年十二月三十日社務所改築、昭和六十三年六月十五日神輿庫を建設した。

 境内に昭和15年に建てられた「訓子府神社基本財産 山林受納記念碑」がある。碑文は次の様。村社昇格に大いに役立つた事と思ふ。
訓子府神社基本財産 山林受納記念碑

訓子府村字大谷三十八番地
一、山林 三町六反四畝十六歩
 仝 村字大谷二十五番地
一、 八反五畝二十一歩
 仝 村字緑丘三百五番地
一、 七反一畝二十九歩
 昭和十五年十二月二十日不動産寄附受納

寄附者芳名
 (転記略)
雑記  最寄駅は石北本線北見駅で北東乃至東北東へ16kmのところにある。
 かつて、ちほく高原鉄道ふるさと銀河線の訓子府駅が徒歩5分のところにあった。(明治44年網走線開業、網走本線、池北線と線名改称、平成元年第三セクター化、平成18年廃線により駅も廃止)
 町役場は東へ0.4kmのところにある。

 本日五社目。
 御朱印は、頂けると良かったのだが、社務所のインターホンの所に「新型コロナウィルス感染予防に付御朱印は中止いたしております」と張紙があって叶わなかった。
 今は、5類相当となり全数把握をしなくなったためかテレビで感染状況を取上げることが殆ど無くなった。訪れた時は、感染者は何人、昨日から何人増えた、等々毎日テレビを賑はしてゐたから警戒心は強かった。屋外ではマスク着用は不要、と云はれても殆ど総ての人がマスクをしてゐた。そのやうな時に出かけてきたのだから、これも一つの現実として受入れるしかない。逆に、旅行に出かけてきたことが不適切と云はれかねないのかもしれない。

 由緒には、社殿造営は昭和17年で、以降の事は記されてゐない。現社殿はそんなに古くはない。社務所改築・神輿庫建設に続いて、社号標を建てた平成18年頃に再建したのかなと、想像する。


 「平和祈念之碑」がある。忠魂碑の隣り(向って左側)にあり、224の戦没者氏名が刻まれてゐる。背面には、次の記録がある。
工事記録
 訓子府村遺族会は、昭和二十一年十一月三日太平洋戦争における戦没者及び満州事変以来の戦没軍人、軍属の本町関係者の遺骨、遺品、遺影などを納めるために現在地に慰霊塔を建立した。
 爾来五十年の風雪に耐えた慰霊塔は平成七年に遺族会結成五十年を迎える機会に記念事業として全面改築され、永遠の平和を願い平和祈念之碑として姿を変えたものである。 会員負担金、戦没者遺族後援会費助金、篤志寄付金、町補助金など、事業費四百四十弐万九千円をもって建設された。施工は、町内柴田石材工業所である。
 以上、後のため経過を記す。
 平成七年三月
 訓子府町遺族会会長 片平武夫
 建設委員 埴山 栄 田中 修
      中田利雄 宇野忠男
      横山勝弥 横川 広
  他 役員一同


【訓子府町】について
  • 人口等
    • 人口:4554人(令和5年6月末)  昭和23年から42年にかけては、10000人を超えてゐた(2)。   
    • 面積:190km2
  • 産業  農業(畑作・酪農)
  • 沿革
    • 明治30年 定住の始り。北光社(3)移民団の内13戸(4)が、居武士(5)に入地
    • 明治44年 訓子府駅開業(網走線開通)
    • 大正4年 野付牛村から分村し置戸村(訓子府域を含む)ができた
    • 大正9年 置戸村から分村し、訓子府村となった
    • 昭和26年 町制施行
    • 平成18年 訓子府駅廃止(ふるさと銀河線(開通時名称は網走線)廃止のため。廃線時、町内には、西(池田側)から西訓子府・西富・訓子府・穂波・日ノ出の五駅があった)
  • 訓子府町の神社 町内に神社庁包括下の神社は当社のみ。国土地理院地図に神社記号があるのは当社の他に2箇所ある(6)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 社号標「訓子府神社」は氏子一同により平成十八年十一月十七日建立
 写真左側に「訓子府神社基本財産 山林受納記念碑」がある。(碑文は由緒蘭参照)
 鳥居のすぐ近くにある新しい灯籠は、駒里出身の札幌で事業をされてゐるかたによる奉納

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 社殿は東向き

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 斜め前から見た社殿

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿側面

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 拝殿内

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 拝殿前から鳥居方を望む
 狛犬は、昭和三年九月御大典記念として、二十二名の方による奉納

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 忠魂碑
 碑には「陸軍大将 鈴木荘六書」(7)とある。「学校、神社など公共の建物のために扁額など多くの揮毫を残し」たといふ。大将在任は大正13年から15年の間。
 灯籠は昭和十五年奉納


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.595-596

  2. 令和5年8月14日閲覧 webサイト訓子府町内の くんねっぷ再発見物語 人口表 より

  3. 北光社 : 北海道への移民のために、高知県で坂本龍馬の甥、坂本直寛らが設立した団体。第一次として芦別、第二次が北見の野付牛(現 北見市)。第二次の第一陣は明治30年4月上旬にに高知県から出航し、関門海峡・小樽港・稚内沖を経由して5月上旬に網走港についた(112戸)。明治31年・32年と三箇年にわたり、約340世帯が現在の北見市北光から訓子府町大谷までのクンネップ原野に入植した。(参考1:北海道ビューポイント訓子府町の旅 (高知の北光社移民団) 2020-02-10 上家二三夫(かみいえ ふみお)氏  参考2:webサイト訓子府町内の くんねっぷ再発見物語 第2章ほか)

  4. 移民団戸数 : 神社庁誌には11戸、町史には13戸とあり相違がある。13戸中の2戸10名は北見市側の区域(但し一部は訓子府町域)に入地してゐる(*)ので、この2戸の扱の差と思はれる。
    (*) : webサイト訓子府町内の くんねっぷ再発見物語 第2章 p.39

  5. 訓子府町域への入地 : 居武士(オロムシ)で常呂川の南北両岸の西17号線から19号線までの範囲。現在の大谷周辺。
    参考:前項(*)と同じ)

  6. 訓子府町内の神社 : 国土地理院地図に神社記号のある箇所の位置とグーグルマップによる社名は次の通り。
     社名  (地名) 位置     読み、コメント
    ・中ノ沢神社(福野)43度46分29.14秒 143度45分11.24秒
    ・開盛神社 (開盛)43度42分35.31秒 143度43分36.49秒 かいせい

  7. 鈴木荘六 : 「学校、神社など公共の建物のために扁額など多くの揮毫を残し」たといふ。大将在任は大正13年から15年の間。出身地は現新潟県三条市で、丸井さん(丸井今井)の創業者今井藤七・二代目雄七と同郷。三条市に建設した武徳殿(三条市歴史民俗産業資料館)の顧問に鈴木荘六、発起人に今井雄七がなった。(ウィキペディア鈴木荘六より 令和5年8月17日閲覧)

改訂記録
  • 令和06.01.27 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)

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