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沙留神社 (北海道〈オホーツク〉興部町)

参拝日 令和4年6月9日(木)
作成日 令和5年4月22日(土)
よみ  さるる じんじゃ
概要  沙留神社は、北海道オホーツク総合局管内興部町字沙留に鎮座する。天照大神と市杵島姫命を祀る。明治22年頃又十藤野又兵衛が漁場を経営したとき杭碑を立て天照大神を奉祀したのに始る。明治33年に現在地に社殿を建立し、火災に遭うなど有りながらも、再建し、昭和17年厳島神社の御分霊を奉斎した。  
所在地  〈オホーツク管内〉興部町字沙留327番地
  北緯 44度26分 3.50秒
  東経143度13分31.72秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
 
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 沙留神社
祭神  天照大神 (あまてらすおおかみ)
 市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
由緒  北海道神社庁誌には次の様に記されてゐる(1)。(適宜改行した)
由緒 明治二十七年頃、またじゅう(又の下に十)藤野又兵衛が沙留で漁場を経営した時、現在の沙留市街地の丘に杭碑を建て天照大神を奉祀した。
 故郷を遠く離れて北国のこの地に永住した人々は心の寄りどころ、信仰を場としての神社を建立する議が興り、明治三十三現在地に社殿を新築し年々盛大に祭典を執行して来た。
 大正十二年四月、山口農場の炭焼小屋より出火した山火事の飛び火に依り社殿を全焼、その後仮殿を建て祭祀を続けて来たが、昭和十年十月町田成朔・清水利吉らが発起人となり皇太子殿下御生誕記念事業として社殿を造営し九月竣工し盛大に鎮座祭を執行した。
 その後昭和十七年、漁業並びに海上安全の守護神である厳島神社の御分霊を拝受すべく神職藤原儀一・総代町田成朔・清水利吉の三人が広島県に出向し奉斎した。昭和二十一年十一月公認神社となり年々祭典を執行した。又境内地に昭和十八年稲荷神社を勧請し、神殿を新築し、漁業商業の人々に信仰されている。
雑記   最寄駅は、宗谷本線名寄駅は西(262度)へ61km・道程79km、石北本線遠軽駅は南南東(33度)へ48km・道程62km 興部町役場はは西北西(297度)へ9.0kmの所にある。 
 名寄本線があった時は北北東100m余の所に沙留駅があった。沙留駅は大正10年開業、平成元年廃止(名寄本線廃止に伴ふ)。

 1915年(大正4年) 沙留村(さるる)、瑠橡村(るろち)、興部村(おこっぺ)が合併し、二級町村の興部村となった。(2)

 創祀は、藤野又兵衛の天照大神を奉祀と云ふが、何故弁財天ではなかったのか、不思議。詳しく知りたいところだ。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 遠景
 向って左奥に見えてゐるのは沙留小学校校舎、フェンスの先はグラウンド。

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 草刈は旗竿の所まで、と社殿から燈籠の辺りまで。9月の祭りには総て刈られるだらう。

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿と燈籠
 燈籠には昭和二十一年九月建之と献納者名とともに刻まれてゐる。

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿正面

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 斜め前から見た社殿


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.600
  2. 令和5年4月16日閲覧 Wikipedia 興部町

改訂記録
  • 令和06.01.31 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)

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