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函館護国神社 (北海道〈渡島〉函館市青柳町)

参拝日 平成30年9月4日(火)
作成日 令和元年12月21日(土)
追記日 令和6年3月31日(日)
よみ  はこだて ごこく じんじゃ  
所在地 〈渡島管内〉函館市青柳町9-23
  (北緯41度45分33.34秒 東経140度42分47.95秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  Wikipedia:函館護国神社
 当社HP
祭 神  戊辰戦争から日清戦争、日露戦争、満州事変、支那事変、大東亜戦争などにおいて尊い生命を捧げられた13000余柱の御霊
由 緒  元 指定護国神社、単立

 北海道神社庁誌には次のやうに載ってゐる(1)
由緒 明治元年戊辰十月二十三日、旧幕府軍が箱館を襲撃してから同二年五月十七日の平定までの官軍戦没者百六十五名の霊を慰める為、明治二年五月に兵部省が招魂社を造営し、九月に祭祀を行う。同年開拓使に引継ぎ毎年五月十一日を祭日と定めた。明治九年六月、同十四年九月の明治天皇箱館御臨幸の際には金幣を賜り、同四十四年八月二十一日東宮(大正天皇)北海道行啓の折には神饌幣帛料を賜る。大正二年三月二十八日、日清日露戦争の函館在住戦病死者百二名を私祭合祀した。後に官祭招魂社、また昭和十四年には函館護国神社と改称、昭和二十一年七月宗教法人となり現在に至る。
雑 記  函館駅から南南西へ2.0km、函館市電宝来・谷地頭線宝来町停留場からは西南西へ0.6kmの函館山東側麓にある。

 慰霊の碑がいくつも建立されてゐる。
 当社HPには、石碑の写真と建立の趣旨について記載されてゐるので、碑文のみをここに転記し、HPの理解の助けにしたい。

「鎮魂」碑  内閣総理大臣 三木武夫
ニューギニヤ島並に同辺戦没者慰霊碑
ニューギニヤ島並に同辺に戦没した英霊は三十万柱を越え道南出身者も多い いろいろの事情のため遺骨は現地にそのままである 遺族と戦友がそれを悲しみ総理大臣の揮毫を乞ひ鎮魂之碑を建立 また歌碑は函館護国神社例祭○外一首で沖縄の北霊碑の前の歌碑西イリアン、ジャブラの歌碑と全く同じである
 昭和五十一年六月二十七日建立
        北海道ニューギニヤ会
        大我口部隊

 ( ○ 部分は判読できなかった)

 帝国海軍駆逐艦 橘鎮魂之碑 (一部を除き碑文は横書)
昭和20年7月14日午前5時 米海軍機動部隊より約100機の敵艦載機が函館港停泊中の青函連絡船及び船舶を目標に来襲した。これら船舶の護衛の任務にあった駆逐艦「橘 1260トン」は単艦よく敵艦載機の襲撃を一手に引受け、湾内湾外に勇戦奮闘し、在泊船舶の損害を最小限に食い止め其の任務を遂行した。敵機6機撃墜、1機撃破して午前6時53分葛登支灯台の90度2分3000mに沈んだ。乗組員280名中、戦死者140名、戦傷者31名

祭主
元橘乗組生存者一同
代表(3名転記略)

平成三年七月十四日 建立
  題字(氏名転記略)
  建文(七名氏名転記略)


 註 葛登支灯台:かっとし灯台、函館山の西南西 約9kmの葛登支岬にある。道内4番目の古い灯台。

 少年海員之碑  運輸大臣 中村寅太書
昭和十六年五月日本海運報國團は函館市の協力の下に函館普通海員養成所を開設 後これを船舶運營會に継承し昭和二十年八月終戦と共に閉鎖せり この○卒業生にして戦時の海上輸送の第一線に挺身せる若人は二千を越えそのうち百二十名は終にかへることなく護国の華と散る また國鐵函館船員養成所の生徒十四名も戦死 これら少年海員の雄々しきおもかげを偲びそのいさをしを稱へみたま安かれと伊藤七三ぬくを始めゆかりの人々この碑を建立す
 昭和四十一年八月十五日 函館護國神社宮司真崎宗次謹みて志る須

 学徒援農記念碑「大地への献身」碑
大地への献身

 太平洋戦争末期昭和二十年前後、敵の空襲潜水艦の恐怖に脅えながら、学徒援農隊当時中学生十四〜十六才は、農家の人手不足及び緊急食糧確保の為、全国より延1.542万人道庁広報によるそれは、国土防衛と食糧確保の為に「国家と青年」「国家と食糧」の名のもと北海道へ支援に来た。
 北海道は、食糧蛋白の供給基地として、その労力は国家を救う原動力となった。この貴重なる体験を培ったことが、昨今国でいう生涯自然体験学習でありその先駆けをなした。
 将に北の大地は、愛情鍛錬の場であり私達の生きざまと多くの人々との心の絆によって、今迄困難にも負けずに来られたことの証を、次の世代を担う青少年達に引継いでやりたいものである。また新たな戦争のない出発点の交流の場として、茲に学徒援農記念碑を建立し、真の世界平和の母胎にしたい。
  平成十七年五月吉日
 全国学徒援農生   有志一同

 註 碑の下方には図が刻まれてゐて、右側に陸別で馬を使ったプラウ(2)耕の様子、中央に日本地図、左側に蒸気機関車C58牽引の特別臨時列車が描かれてゐる。


 神社巡り、三日目の四社目。八雲町の八雲神社を参拝後、函館に来た。1420着。ほぼ2時間かかった。計画は、79kmを平均速度45km/時 で走り1時間45分で着く、としてゐたので少し押してしまった。
 台風が更に近づいたのか、小雨ながら風が強く、傘がさしづらい状態。草木は濡れてゐるし、足下には水たまりもあり、歩き回りたくなかった。幸ひ、石碑は多くなく早々に参拝・見学を終えた。
 この文書を書くに当って、当社HPを見て判ったが、参拝時は、「陸海軍戦死者人名碑」「旧官修墳墓(新政府軍の墓)」「戊辰薩藩戦死者墓」ほか、存在を知らずに詣り損ねてゐた。

 今日はこの後、140km走って、黒松内で宿泊することにしてゐる。明日は札幌で12時30分までに車を返却する予定にしてゐるから、先へ進んでおかなければいけない。台風の速度が上がり、早く来るなら、あと三社を巡る予定を切上げなくてはいけなくなる。
 台風21号は、12時前に徳島県南部に上陸し、直前の観測で中心気圧950kPa、中心付近の最大風速45m、北北東へ進んで今日の深夜には渡島半島沖を通ると予想されてゐる。洞爺丸台風(昭和29年台風15号)と似た進路で、勢力も強く、倒木で道路が塞がれたりはしないだらうかと、気になる。まだ、大阪辺りにあるやうだが。

 14時45分、函館八幡宮へ向け出発。直ぐ近くだ。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  拡大(640×240)


写真2


写真3


写真4  社殿から市街地方面を望む


御朱印


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.765
  2. プラウ:プラウ(英語由来)は耕起する農具で、明治になってから伝った西洋農具。現在ではトラクターに取付けて行ふ。

改訂記録
  • 令和06.03.31 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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