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亀田八幡宮 (北海道〈渡島〉函館市八幡町)

参拝日 平成30年9月4日(火)
作成日 令和元年12月21日(土)
追記日 令和6年3月31日(日)
よみ  かめだ はちまんぐう  
所在地 〈渡島管内〉函館市八幡町3-2 (北緯41度47分29.81秒 東経140度44分11.61秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 亀田八幡宮
 Wikipedia:亀田八幡宮
祭 神  誉田別命(ほんだわけのみこと)
由 緒  元 郷社

 函館市史 亀田市編には次のやうにある(1)
『亀田八幡宮紀元書』の最初に「亀田郷惣鎮守、正八幡宮建立、慶長八年癸卯十月、大檀那蛎崎甚五郎源盛広公」と記され、その起源は遠く、祭神は誉田別尊である。
 明治五年、菊池重賢の「巡回御用神社取調」の際は、亀田村の八幡宮として、詳細に調査が行われた。
 『亀田村郷土誌』(大正初期)には「明徳元年に函館の館主河野加賀守森幸が越前国敦賀気比神社より分霊を奉じて千代ケ岱に勧請し鎮守に祀り、後、文禄三年松前家の祈願所として尊崇厚く、慶長、延宝、享保、寛保、明和、安永、天明等に社の再建があり、社前の花崗岩の大島居は松前奉行の経営奉納によるものである。明治九年郷社となり、同十五年一品熾仁親王殿下御染筆の額面を賜った。本社は八幡の森と称する古木亭々たる森林にあり、昼尚小暗く荘厳の気自ら迫り神々しさはことばに尽くせない。毎年九月十五日、祭礼を行う。遠近の参詣者数を知らず盛大である。」と記されている。
 境内も広く、『亀田八幡宮紀元書』には「東百二十間、西九十七間、南百二十五間、北百八間」とあり、宮司藤山氏は代々この社を守っている。
 明治三十二年函館区との合併後も、亀田村民は氏子として、函館市と一体となり、この神社を尊崇している。こんもりと茂っていた森も今はしのぶよしもないが、亀田郷の鎮守としての重みは変らず、また宮司の藤山直弘は亀田市における桔梗町の比遅理神社、鍛治町の稲荷神社、神山町の稲荷神社、赤川町の三嶋神社、石川町の川上神社などの宮司も兼ねている。

 函館市史通説編 第1巻には次のやうにある(2) (3)
 明徳元(1390)年、河野加賀守森幸なる者が越前敦賀郡の気比神宮より勧請し、文禄年間には領主蠣崎氏の祈願所となり、慶長8(1603)年、本殿、拝殿が建立された(『函館区史』)とあり、また、『福山秘府』(諸社年譜並境内堂社部)では「造立年号相知れず」とある。だが初代神職は享禄年間の奉職と伝え、延宝2(1674)年の棟札も現存し、また元文4(1739)年の棟札もあって、それには領内の五穀豊熟祈祷所の旨が記されている。
亀田八幡宮 社職6代藤山季房が文化5年社誌を記述したが、7代政房も文政8(1825)年、『亀田八幡宮記元書』を残した。ことに松前家からは毎年祭祀料として玄米25俵が献じられ、大祭には代参があった。2月は鰊漁、6月には昆布の豊漁を祈願した。神職はもと修験者であったが、のち吉田唯一神道となり藤山姓を名のって現在に至っている。

 函館市史 亀田市編第五章によれば、『函館郷土史話』には次のように記されている。といふ。
 「箱館は連年アイヌに攻められて、五、六十年たった永正九(一五一二)年、河野政通の子季通等が一本木で戦死したので、その一族は八幡宮の御神体を赤川村に移した。約百三十年で慶安年間(一六八四―五一)、巫子伊知女が赤川村から元町の元の所に移した。その後長く赤川村には八幡屋敷≠ニいう旧跡があったとのことである。」
雑 記  函館本線函館駅から北北東へ4.2km、五稜郭駅からは南南東へ1.2kmのところにある。五稜郭は、当社から東北東へ1.6kmのところにある。

 明治35年に亀田村、鍛冶村、神山村、赤川村、桔梗村、石川村が合併し、新たに亀田村が成立し昭和46年に市制施行したが、昭和48年に函館市に編入された。なお、明治32年に亀田村の一部が函館(当時函館区)に編入されたが、当社も函館区域となった。然し乍ら、北海道庁令をもって、亀田八幡宮は函館区および亀田村より神饌幣帛料を供進する神社に指定されたことによって、亀田村民の氏子としての立場が明確に保証され、神社創設以来一貫して尊崇の的となってきた、といふ。

 旧社殿前には「箱館戦争降伏式之地」碑が建ってゐる。碑文は次のやう。
明治二年(1869)五月十八日、旧幕府軍(榎本軍)が幕府軍に降伏 実は、その前日午前 亀田八幡宮社殿前に於いて黒田、榎本両雄が会談し、降伏の実効を整えたのであった。誓約後冷酒にて歓談。この日、この地こそ、近代日本の幕開けであり、わが国の歴史遺産の地、証の地として永劫に輝く
南北海道史研究会会員 近江幸雄
  平成二十四年十一月 (三名の氏名略)建立
 御朱印を頂いた際、鉄砲玉が当った跡があると教へられたが、確認出来なかった。暗くなってきた事もあるのかな。



 境内社に函館薬祖神社がある。社前には由緒が掲示されてゐた。次のやう。
函館薬祖神社由来

御祭神  少名毘古那命(すくなひこなのみこと)

 (中略)
 本社の御神体は祭神少名毘古那命の木像で江戸時代(寛政年間)より当地函館山の薬師山頂に医王山明神の一柱として鎮守されていたが、明治三十二年函館山に陸軍要塞が築造された際に取除かれ、御神像は大町の医院国領家に預け置かれた。
 大正十四年に至り、布袋屋金治が二代目国領平七より家屋を買受けた時に再び見出され、当時の組合長濱野末吉の提唱で奉賛会を作り、以後毎年薬業者が祭祀を続けて来た。
 現在の神殿は昭和二十九年当亀田八幡宮の社殿修築に際し、当時の奉賛会長三上純次が薬業界協賛の元に、神域の提供を願い不要の奥殿を譲受けて、同年十月二十三日に御造営を行って奉安致したものである。
    (例大祭 ─ 九月二十日)
 平成二年七月
函館薬祖神社奉賛会
会 長 黒 崎 弘 二
函 館 薬 業 組 合
組合長 三 上 総 一


 神社巡り、本日は三日目。午後も4時半に近くなり、本日六社目で終了。宿は、明日の予定を考えて黒松内駅前の旅館としてゐる。
 いま、雨はやんでゐる。台風21号は若狭湾辺りにあって、こちらに向って来るとラジオで聞いたが……。未だ離れてゐるが、明日の朝、9時には稚内の北西沖にまで行くやうだ。
 これから、120km余を暗くなって、雨風が強くなるかも知れない中を走るのは、ゆるくない。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  鳥居は「弘化四丁未年六月三日」と刻まれてゐる。社号標は「大正八年九月十五日」とある


写真2  二ノ鳥居には、金属製(青銅?)の扁額が掛ってゐる


写真3  拝殿



写真8  旧社殿。「箱館戦争降伏式之地」碑が建ってゐる。


写真4  境内社 亀田稲荷神社






写真5


写真6  境内社 函館薬祖神社。
社号標は「昭和四十年九月」の年記がある。鳥居は「奉納 原田嘉市 三上純次 昭和四十年九月吉日」「奉納 平成二十八年九月」とある。


写真7





御朱印


出典・脚注
  1. 函館市史 別巻 亀田市編 昭和五十三年 p.805 (第五章 農地解放と農村の変容)
  2. 函館市史通説編第1巻 昭和五十五年 p.407 (第3編 古代・中世・近世 第2章 松前藩政下の箱館) / 函館市地域史料アーカイブ該当頁
  3. 函館市史通説編第1巻 昭和五十五年 p.535 (第3編 古代・中世・近世 第4章 松前家復領と箱館) / 函館市地域史料アーカイブ該当頁

改訂記録
  • 令和06.03.31 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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