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八雲神社 (北海道〈渡島〉八雲町)

参拝日 平成30年9月4日(火)
作成日 令和元年12月14日(土)
追記日 令和6年3月31日(日)
よみ  やくも じんじゃ  
所在地 〈渡島管内〉八雲町宮園町56番地  (北緯42度15分7.76秒 東経140度15分43.82秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 八雲神社
祭 神  熱田皇大神(あつたのすめおおかみ)
 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)
 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)
 宮簀媛命(みやずひめのみこと)
 建稲種命(たけいなだのみこと)
 徳川慶勝命(とくがわよしかつのみこと)
由 緒  元 郷社。全国唯一の熱田神宮分社。

 境内にある碑には次のやうにある。(○○は読めなかった文字)
熱田神宮 分宮 八雲神社
本社、熱田神宮は伊勢神宮につぐ別格尊貴の勅裁社として国民等しく敬仰する大社で、当八雲神社は、明治廿年三月廿三日、御分霊奉遷鎮斉、日本国内の只一社の熱田神宮分宮となる、 茲、原始の山野に、明治十一年八月一日、十五戸単身者十名が鍬を下ろし幾年月、望郷の心は故郷の大社熱田神宮に集まり八雲町開基の父、従一位徳川慶勝卿、○○請願の運びとなり、明治天皇の御裁可を仰いで御分霊の儀実現、移住開拓魂のよりところ、八雲鎮守の郷社として稜威あまねく今日に至る

 八雲町史には次のやうに載ってゐる(1)
 明治11年(1878)徳川家旧家臣の移住により、遊楽部の開拓がはじめられたのであるが、移住者はその氏神とするため、翌12年に故郷の熱田神宮神符と徳川家歴代の神霊を板蔵の二階に祭り、のちに八雲小学校の一室に移し、産土神(うぶすながみ)として崇拝していた。これが八雲神社の起源である。
 その後、明治17年12月には神殿を新築(現、自衛隊基地内)し、19年に「八雲神社」の創立出願をして6月17日許可を得、同年12月1日村社に列せられた。さらに翌20年には徳川家を経て熱田神宮の分霊を仰ぐべく、氏子総代片桐前作、佐治為泰の両人が神宮に出頭して次の願書を提出した。
 御分霊願
 (以下引用略)
 さいわいこの出願は許可になり、分霊は同年3月23日に到着し、直ちに当社に奉斎した。時の神官は森富崇であった。また、この分霊の奉遷については、次に掲げる証明書によっても明らかにされるとともに、熱田神宮の分霊を祭っている神社は、全国でも唯一のものであることを誇りとしている。
 なお、この分霊奉遷にあたっては、徳川慶勝が明治天皇に、直接奉請して勅許を得たものと伝えられている。
 証明書
 (以下引用略)

 このようにして熱田神宮の分霊を祭ったことから、祭神は、熱田大神・天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命であり、さらに昭和9年5月4日には、許可を得て八雲町開拓の始祖と仰ぐ徳川慶勝命を合祭した。
 明治39年11月には神饌幣帛料供進神社に指定され、大正15年に社殿を改築し、昭和6年6月郷社に昇格した。
 戦局急を告げた昭和18年、当町に陸軍飛行場が建設されることになり、その敷地内に含まれることになった当社は、旧制中学校や多くの民家などとともに移転しなければならなくなり、同年10月現在地(宮園町)に遷宮した。
 その後、20年には氏子が協議し、由緒を誇る当社の県社昇格について準備が進められていたが、終戦後の神社制度改革によって実現に至らなかった。
 当社には、大正10年8月北白川宮成久王殿下、大正14年7月北白川宮永久王殿下および竹田宮恒徳王殿下、昭和9年9月北白川宮祥子妃殿下、昭和50年7月常陸宮華子妃殿下が正式に参拝され、それぞれ松をお手植えになっている。
 宝物には神鏡のほか、北白川宮永久王殿下奉納の洋画をはじめ、徳川慶勝の書簡および額、徳川義礼の額などがある。昭和28年9月に宗教法人として再発足し、現宮司は川口進で、例大祭は6月20日から3日間である。
雑 記  函館本線八雲駅から西へ1.0kmの所にある。

 境内にある「英霊碑」は、八雲町史(2)によると、
 明治41年に結成された八雲在郷軍人会が同43年に日露戦争戦役者の"忠魂碑"を1306坪の敷地を選定し、建立した。昭和26年に八雲神社境内に移して「英霊碑」と改めた、
  戦病死者 日露戦争   9名
       満州事変   3名
       支那事変  53名
       大東亜戦争 323名 
 なお、落部村(昭和32年に合併)では、落部八幡宮境内に忠魂碑が建立された、といふ。

 碑には「明治三十七八年戦役戦病死者」氏名が刻まれてゐる。また「明治四十三年六月十四日起工 明治四十三円十月十七日竣工」及び、特志者名多数が刻まれてゐる。

 石造物には次の物があった(他に記述の他に)。
 ・使はれてゐない手水鉢があり、奉納者は八雲村本町の方と函館区谷地頭町の方連名で「明治四十五年四月建之」の年記がある。
 ・社号標は、「侯爵徳川義親拝書 八雲神社」「平成十五年六月吉日 八雲神社 氏子一同」とある。
 ・玉垣には、「徳川義宣」「八雲町漁業協同組合」の名がある。
 ・昭和九年六月建之の燈籠ほか、二対。

 神社巡り三日目、室蘭市の崎守神社を9時40分過ぎに発ち、99km走り、12時00直前に着いた。平均速度 42km/h 。北海道の都市間はこんな物かな。計画では45km/hと見込んでゐた。一日目、二日目では、参拝・見学には20分と見積ったにもかかはらず、30分を越え、護国神社では30分とみたのが50分となるなど、見学時間の見積り不足を感じてゐた。夕方から今夜には来るといふ台風情報をも勘案して計画を修正しなくては。
 当社は、東向き。車は南側から入れる。
 御朱印を頂くには12時前に着かなくては、と思ってゐたものの着いたのは直前。ただ、社務所は閉ってゐたから、今回は時間に関係なく頂けなかったやうだ。手水があり、昭和五十年に奉納された自然石の手水石には水が湛えられてゐたから偶々の外出なのだらう。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2


写真3  参道は長い


写真4  狛犬は、平成三十年六月献納


写真5  拡大(640×241)
 中央の松は北白川宮永久王妃祥子殿下が、右側の松は北白川宮永久王殿下御手植の松


写真6  英霊碑

出典・脚注
  1. デジタル八雲町史 第13編 宗教 八雲神社 (昭和58年発刊の「改訂八雲町史」をデジタル(テキスト)化したもの)
  2. デジタル八雲町史 第15編 軍事 在郷軍人会 (同上)

改訂記録
  • 令和06.03.31 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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