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琴似神社 (北海道札幌市琴似)

参拝日 平成30年11月3日(土)
作成日 令和2年6月20日(土)
追記日 令和6年3月23日(土)
よみ  ことに じんじゃ  
所在地  札幌市西区琴似一条七丁目一番三十号 (43度4分23.05秒 141度18分6.27秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 琴似神社
・Wikipedia:琴似神社
祭神  天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 豊受大神(とようけのおおかみ)
 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
 武早智雄神(たけはやちおのかみ)
 土津霊神(はにつれいしん)
由緒  元 郷社
 北海道神社庁誌には次のやうに載ってゐる。
由緒  明治八年北海道開拓使最初の屯田兵として琴似に入植した二四〇戸の人々は旧亘理藩(宮城県)藩祖伊達藤五郎成実公の遺徳を敬慕して武早智雄神と尊称し、御神徳を北海道開拓の上に顕彰するため武早神社と号し創建した。明治三十年その 鎮座地を山の手五条一丁目に移し、神祠を移築して本殿とし、更に幣殿、拝殿を 造築した。明治四十四年に大国主大神を御増祀。大正四年、現在の御鎮座地に遷 座し、郷社と認定される。紀元二千六百年を記念した境内の大改修と共に昭和四 十二年、諸施設整い、伊勢神宮の特旨を仰いで同年十月二十八日特別神璽を拝受、両宮の神々を御増祀、更に平成六年旧会津藩(福島県 )藩祖保科正之公 、 土津霊神を御増祀、大先祖の神々の民族生成発展の御理想を欣仰いたしている。
境内外末社  安全神社 天御中主大神、報徳神社 大国魂神、御門山琴似天満宮 菅原大神、祖霊殿 神社物故功労者
雑記  函館本線琴似駅から南西へ1.0km、地下鉄東西線琴似駅から0.3kmの所にある。

 Wikipedidによると、「一部の兵士の出身地であった仙台藩亘理伊達氏の祖伊達成実を武早智雄神として祭神とした。」「北海道有珠郡に入植していた第十四代亘理領主伊達邦成から、陣羽織と直筆の掛け軸等を奉納された」(2)といふ

 今回の、11月1日からの道内神社巡りは、当社で終り。詰込んだ計画30社中、24社を巡ってこれた。少し遠い親類(四親等)の名前を見つけた神社、幼い頃遊んでゐた石碑の移転先神社、神社巡りを機会として知った歴史も、今回の神社巡りで得たものだ。北海道の自然の中を車で走るのも楽しい。翌年(令和元年)初秋までに数回、日帰りで道内神社巡りしてゐる。さらに機会をつくりたい。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1 拡大 (1280×960)


写真2 拡大 (1280×960)
神門

脇に灯籠があり「在山鼻旧亘理藩士同」「明治二十年九月吉日」の文字が読める


写真3 拡大 (1280×960)
拝殿

手前の木のもとには「古殿地」の札がある。


写真4 拡大 (1280×960)
境内社 報徳神社
拝殿前に置かれた掲示には次のやうにある。
報徳神社 ほうとくじんじゃ
 現在の山の手2条1丁目にある日登寺境内に「武早智雄神」(たけはやちおのかみ)を祀った、琴似神社の最初の社殿。(明治初期造営の一間社)
 社殿は山の手から現在の鎮座地までに二回場所を移りました。
 現在の境内で第二次世界大戦の終戦を迎えた時、悲しみに沈んだ町民を何かと元気づけたいと、新しい社殿(現在の御本殿)を建て、神様をお移しする事になりました。
 それからは、琴似の礎を築いた屯田兵二百四十柱をこの社殿にお祀りしています。
 また、西南戦争から第二次世界大戦にかけて琴似から出征して戦死された方の御霊もお祀りされています。
 ここにお祀りされている尊い御霊のお働きによって、今の琴似があります。
 他のお社と同様に心を込めてお参り下さい。
忠魂碑は「大正元年十一月建之」とある。


写真5 拡大 (1280×960)
境内社 安全神社
 木製の社号標がある。背面に「昭和五十六年九月一日」側面に「御巡幸百年記念設立」
 灯籠は平成二十一年十一月建立


写真6 屯田兵家屋
掲示物には次のやうにあった。
屯田兵村には開拓使による明治八年五月入植の琴似兵村を創始とし明治三十七年九月の廃止まで全道三十七兵村が設置され北海道の開拓に多大の貢献をした
この建物は最初琴似兵村の兵屋として明治七年十一月二十八日建設されたものの遺構で佐藤喜一郎に給与された家屋である
昭和三十九年現在地の東北方約400メートルの旧位置から曳方移転し建設当時の資料にもとづいて復元したものであるが開拓使時代の屯田兵屋の形態を伝える貴重な遺構である。
 昭和三十九年十月三日指定
北海道教育委員会



写真7 屯田兵家屋 内部

 教育委員会によると、復元した遺構、とのこと。昭和三十九年に復元(新築)したといふことなのかな。それなら、既に遺構ではなくなってゐるのだが……。良く理解できない。


写真8 屯田兵家屋 内部


写真9 「琴似屯田 授産場跡」碑 町村金五書
碑の横にある「建碑の誌」には次のやうに記されてゐる。

 明治八年先人が開拓警備の雄図を以って開拓使最初の屯田兵として札幌市西区琴似12条3丁目より6丁目に二百八戸発寒に三十二戸が東北地方より移住され開墾と共に産業振興の起点としてこの地に琴似屯田授産場養蚕室が設立された
而して明治十四年清明の天使明治天皇は北海道御巡幸に際し札幌に聖駕を駐められ九月一日御名代として北白川宮能久親王殿下を琴似屯田兵村に御差遣その実況を具にし琴似屯田授産場養蚕室御代覧の事が行はせられた この開拓先人創業の歴史的光栄ある授産場跡地は大正四年開拓の祖神を祀る神園として現在に及んでいるのであります 茲に御巡幸を拝してより百周年を記念し氏子の協賛を得て碑を建立し床り深い浄地を永代に伝承し御聖徳と拓北の偉業を敬慕すると共に子孫の栄昌を祈るものであります
  昭和五十六年九月一日
琴似神社 宮司         菅原 正
御巡幸百年記念事業実行委員長 坂井直徳



御朱印 拡大 (480×640)


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.242-243
  2. 令和2年6月15日閲覧 Wikipedia:琴似神社

改訂記録
  • 令和06.03.23 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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