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上喜茂別神社 (北海道〈後志〉喜茂別町栄)

参拝日 令和元年9月20日(金)
作成日 令和2年10月3日(土)
追記日 令和6年3月16日(土)
よみ  かみきもべつ じんじゃ  
所在地 〈後志管内〉喜茂別町栄 (42度48分38.40秒 141度0分5.99秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  ─
祭神  天照皇大神
 豊受大神
由緒  神社庁包括外
 北海道神社庁誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒 もと福島団体一号、二号、黒橋、上喜茂別の各地区ごとにそれぞれ祀っていた四神社を併せ祀ることになり、上喜茂別神社として建立したのは、大正十四年九月十八日。昭和二十四年十一月八日、稲荷神社を奉斎していた野田正が稲荷神社の建物二棟と境内地一二〇坪を寄附する。のちに社殿が改築された
雑記  喜茂別町役場から北北東へ6.3kmの所にある。鉄道駅は函館本線倶知安駅が最寄で当社から西北西へ25km、道程32kmの所になる。胆振線が通ってゐたころは、喜茂別駅(初代駅は現役場から北北東へ200m、昭和19年以降は現役場から西北西へ0.7km)が近かった。

 地理院地図には、当社の近くに碑があるとされてゐる。車を運転してゐるせゐか、車窓に気を配ってゐたものの、見つけられなかった。碑は「三宅伊勢松頌徳碑」で、氏は明治37年に上喜茂別(現栄)に牧場開設のため入地し三宅農場(後、改名)を拓いた。また上喜茂別駅逓所を開設、小学校用地寄附などの業績があるといふ。近くに来てゐたので目にしたかった。

 かつて、当社現在地から、東北東1〜2km程の所に鉱山があって褐鉄鉱を生産して、室蘭製鉄所へ運んでゐたといふ。室蘭八幡宮のページでは砂鉄を使用したのにはびっくり、と記したが、生産量が増せば砂鉄で賄えられないのは自明。栄や脇方から胆振線を使って運んだといふ。胆振線は倶知安と伊達紋別を結んだ83kmの線路で、私が鉄道に乗り始めた昭和50年の時刻表では札幌発札幌行の急行いぶり6時間半かけて急行らいでん、急行ちとせを併結する列車が運行されてゐた。周遊券を使へた頃に乗りたかったが、機会が無いまま廃線となった。双葉神社でふれた倶知安行バス、伊達紋別行バスは代行バスの名残りと思ふ。
 栄の事に戻ると、喜茂別駅から上喜茂別鉱山までの間に鉄道が敷かれたと云ふが、昭和27年の航空写真を見ると社殿の後ろ側を線路が通ってゐるとみえるし、いかにも露天掘といふ地形も見える。何両もの貨車を引く列車が走ってゐたのかと想ふが、現地の様子からは鉄道があらうかとは全く思ひもよらなかった。
 鉱山については、『きもべつの歴史を歩く』(2)には次のやうに載ってゐる。
鉱山は、1904(明治 37)年、地域住民により発見されました。褐鉄鉱の採掘が始まったのは、34年後の1938(昭和 13)年。1941(昭和16)年の胆振縦貫鉄道開通に合わせて、日鉄鉱業株)が喜茂別駅まで専用軌道6.6km)を布設し、露天掘り採掘し、室蘭製鉄所への鉱石輸送を開始しました。この時の従業員は174 名を数え、1944(昭和19)年までに約30万トンが採掘されました。(中略) 1953(昭和28)年再び休山に追い込まれました。日鉄専用線は、1958(昭和33)年に廃止となりました。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)



写真2
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写真3
写真3 拡大 (1280×960)




出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.864
  2. 令和2年9月22日閲覧 【史跡ガイドブック】きもべつの歴史を歩く 喜茂別町教育委員会 平成31年3月 p.30 

改訂記録
  • 令和06.03.16 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。

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