由 緒
元 郷社
境内の碑には次のやうにある。
納内神社由緒
鎮座地
納内町三丁目八番五号
| 御祭神
| 天照大御神
英霊百九柱
| 社殿
| 本殿(神明造り) 幣殿 拝殿 神饌所
| 社紋
| 巴
| 氏子地域
| 納内町壱円
| 祭典日
| 例大祭 九月五日
慰霊大祭 六月十五日
| 御創祀
| 明治二十八年・同二十九年、開拓屯田兵二百戸入植
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| 明治三十一年、尚武山中腹に小祠建立天照大御神奉斎
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| 明治三十五年、現在地に遷宮 氏神と仰ぎ祭典を行う
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| 昭和三十年、祭神として英霊百九柱を祀る
| 記念碑
| 忠魂碑 創祀百年碑
開村記念碑 出兵記念碑
日露戦勝記念碑 頌徳記念碑
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御創祀以来町民の鎮守の社として町民の心の拠り所として産土に赤心を捧げる
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北海道神社庁誌(1)には次のやうに載ってゐる。
由緒 納内兵村が開村した明治二十八年、尚武山山麓に「開拓記念碑」を建て、入村した五月十五日を記念日に定めて翌二十九年から記念祭が行われた。この記念祭と関連して、明治三十一年有志が尚武山中腹に小祠を建て天照大神を奉祀した。明治三十五年雨竜屯田兵が後備役に編入されることから、納内村の新今為吉等が兵村共有地だった現在地を敷地として小祠を設けて尚武山から天照大神を奉遷した。明治三十七年社殿の造営を計画し八月に本殿と拝殿の完成を見た。明治三十九年神社の基本財造成のため第七師団長に請願し未開地二十二町歩の給与を受け同四十年四月二十七日無格社納内神社として公認された。大正十二年村社に列せられ、さらに昭和十三年に郷社に昇格した。昭和二十一年宗教法人となった。境内には神木の大水松や「忠魂碑」「開村記念碑」「明治三十七年役出征記念碑
」等がある。
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| 雑 記
| 函館本線納内駅から南南東へ0.5kmの所にある。
9月2日からの道内別表神社三社他の神社巡り二日目で、上川神社に続いて当社参拝、本日9社目。
納内村は、大正九年に一已(いちやん)村から分立し、昭和38年に深川町・一已村・音江村と合併し深川市の一部となった。
由緒に出てくる尚武山は当社から凡そ2.5km北にある比高70m余の山。
「納内神社 創祀百年」碑の碑文は次のやう。
碑文
明治二十八年 同二十九年に入植した屯田兵をはじめとする人々の心の拠り所として明治三十一年尚武山の中腹に小神殿を建立し天照皇大神を奉斎するを創祀とする
その後氏子の相互扶助の誠心と敬神崇祖の顕われとが一致し 明治三十五年秋現在地に遷宮せしものなり
以来数度にわたる神殿の改修築 累年の変遷と曲折を経て ここに百年の星霜を重ねるところとなれり
よって創祀百年に当たり氏子の浄財により記念の諸事業を実行し この記念碑を建立して後世に創祀の意義を伝承せしむるとともに郷土の安寧と発展に永劫の加護あらんことを希求するものなり
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忠魂碑には次の碑文がある。
忠魂碑碑文
日露戦役にて名誉の戦死を遂げた屯田兵八名、現役二名の英霊を祀って、明治四十年八月神社鳥居西側に建立され、さらに大正十一年五月、社殿の西側に移遷されたが、後年、日支事変大東亜戦争へと戦役が拡大されて行き、その犠牲となった英霊は逐年増加して、現在百八柱の英霊が今日の平和を陰ながら喜んでいるものと思う。
納内神社創祀百年を期して、苔むして台座も不安定となりたるを以て平成九年八月この場所に移遷せしものなり。
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当社の前に参拝した上川神社からは、約45分で到着。計画は32分だったから、10分余の遅れ拡大。計画自体が無理なので致し方ない。参拝と見学は15分ほどで、碑文は斜め読みで写真に収め、次の予定地、深川神社へ向った。
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