由 緒
元 村社
北海道神社庁誌には次のやうに載ってゐる。(1)
由緒 富山県からの開拓移住の人々が、故郷の富山県国幣小社高瀬神社の分霊を明治二十七年に受けて創立したのを起源とする。
その他 道より故郷の富山県から伝承された獅子舞が無形文化財として指定を受ける。
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栗沢町史(昭和39年刊)には次のやうに載ってゐる。(2)
礪波神社 礪波八十四番地に在り、大己貴神、天活玉命、五十猛命の三柱を祭る神社である。昭和二十七年三月礪波団体長本田幸彦は、富山県国幣小社高瀬神社の分霊を受け、同年十一月仮の社を団体地の中央に建てて祭り氏神としてのにはじまり、以来本田英三郎をはじめ部落民の努力によって明治三十九年十一月仮神殿及び拝殿を建設し、基本財産の造成を計り同四十年七月五日に無格社に列せられた。
昭和七年九月工費一万二、000円を要して富山県産のケヤキ材で神殿を、また杉材で幣殿を造営し、昭和十一年十二月二十四日村社に昇格した。基本財産は明治二十九年以来蓄積して水田五町歩、畑地二町五反、宅地四反余を持っていたが、戦後農地法によって買い取られ、現在その代金一万数千円が蓄積されている。
昭和二十九年三月八日宗教法人の認証を受け、境内地は700坪、本殿1坪125、拝殿7.5坪、幣殿16.5坪、氏子戸数は118戸である。
祭典は始め春五月一日、秋九月十日であったが、農作業の関係上春は四月十七日に変更された。神職は栗沢神社宮司の兼任で、現在の責任役員は(中略)である。
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| 雑 記
| 室蘭本線栗沢駅から北北西へ2.3km、同志文駅からは南南西へ2.3km、函館本線岩見沢駅からは南南西へ7.4kmの所にある。
栗沢は明治25年に岩見沢村から分村し、昭和24年町制施行し、平成18年に栗沢町は北村とともに岩見沢市と合併(編入)し、岩見沢市の一部となってゐる。
当地の地名「礪波」の由来は出身地の地名、富山県砺波にある。富山県砺波からの北海道への団体入植は、栗沢、音更、名寄に入った三団体があるといふ。
砺波からの移住について富山県博物館協会HPから一部を引用する。(3)
明治26年5月に石狩国空知郡栗澤村幌向原野に入植し、新しく開拓した土地に、自分たちの故郷の名「砺波」を付け、砺波の信仰や習慣を根付かせました。
入植したのは平坦で肥沃な土地でしたが、一帯に樹木がうっそうと茂り、直径1?1.8mの巨木が1反当り20〜30本もあり、雑木が生い茂っていました。皆で協力して木を伐り、焼き捨て、その後に一鍬一鍬(ひとくわひとくわ)耕して開墾しました。
また熊から身を守るため、夜は鋸(のこぎり)を叩いて夜通し見張り、日中でも共同で作業を行い、常に警戒しました。
北海道へ移住を勧誘する際、「寺もないような所には住みたくない」との声があがりました。団体長は札幌別院におられた義弟を団体の一員として迎え入れて、新天地で寺を作ることを約束しました。迷っていた人たちも寺ができるのならと安心して移住を決断しました。
その苦労を乗り越えられたのは、彼らの心に根付いた信仰の力と越中魂でした。開拓地を砺波と名付け、地区の中心に浄土真宗の寺を建て、故郷の神社を祀りました。人々はたとえ疲れていても朝と晩に手を合わせることを怠りませんでした。故郷を離れても習慣や文化、気概を保ち続け、越中人としての誇りは決して忘れませんでした。
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引用文中にある寺は常照寺で、当社のすぐ近くにある。
石碑はいくつかあった。
「紀念碑」: 題は「紀念碑」。碑文は、三百文字余の漢文。文字が不鮮明で読取り難い。冒頭は「本田幸彦」で始り文末当りには「嗚呼明治四十一年三月」と読める。
日露戦役殉死者を称える碑 : 題は無く、台座に「建設者礪波一同」とある。碑文は、以下のよう(漢字は当用の字体に置換へた)。
故山本栄太郎氏ハ生家代々農ヲ以テ□ノ父ハ幸次郎越中国西礪波郡
西野尻村ニ生ル□性温順夙ニ青年ノ模範タ□明治三十五年十二月一
日徴サレテ第七師団ニ入営シ爾来忠実軍務ニ服シ亦有□ノ聞アリ後
チ抜擢セラレテ工兵上等兵ニ進ム干持明治三十七年二月十日日露ノ
和□ルルヤ同年十月二十四日奮然起テ□征ニ□フ同月二十七日旅順
附□二竜山松樹山攻撃ニ加ハル同年十二月五日夫ノ難攻不落ト宣伝
セラレタル旅順港二○三高地ノ激戦ニ参加シ戦闘中敵弾ヲ負フ越テ
三十八年七月十日負傷ニ因リテ戸山分院内ニ没す噫□ヤ□□ノ国難
ニ殉シタリ□ニ寔ニ名誉の極ミト謂フヘシ仍テ居村礪波青年団議リ
テ□カ略歴ヲ叙シ以テ其功績ヲ永く万世ニ伝頌ス矣
明治四十四年□月
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道営土地改良総合整備事業砺波地区竣功記念碑
道営土地改良総合整備事業砺波地区竣功記念碑
郷豊沃恒
空知支庁長 清水邦昭
昭和六十三年季秋
碑文
此の地は開拓の鍬が打ち下ろされてから早一世紀を迎える。大正二年に□田がなされ爾来五十年 農業の選択的拡大、専業化、大型化が提唱される中、昭和四十一〜二年度に農業構造改善事業□昭和四十六〜七年度には道営圃□整備事業が相次いで実施され圃場の大型化、農道用排水路の整備、暗渠排水等の施工により大型農業機械の導入、稲作の一貫体系が確立され農業の近代化と生産性の合理化による農業経済の安定向上が図られた。
その後、米の過剰基調による生産抑制的な対応を余儀なくされ、更に生産性の向上を目指し、農業機械の田面踏圧による表面停滞水の排除、地下の透水性を高め農業地の汎用化を計るべく道営土地改良総合整備事業による再整備が急務として要望され、この目的達成を願い砺波 栗部及び周辺地域を含めた同志相集い昭和五十七年一月期成会を設立、翌年度には着工の運びとなり以来七年、本事業計画に基づく浅層暗渠排水、用排水路、幹線農道等の竣功をみた。この事業実施にあたっては農林水産省をはじ□□機関団体の御指導、御協力、地元関係者の熱意に対し深甚なる感謝の意を表わし、これらを礎にして広汎な農産物供給基地として肥沃な大地を最大限に活用した恒久的に稔り豊かな郷つくりを実現すべく農業者としての使命達成を誓い、ここに先駆者各位の労苦を偲び次代に引き継ぎ後世に永く伝えるものである。
事業概要
地区面積 221.4ヘクタール 受益戸数 62戸
総事業費 800,000千円
暗渠排水 212.0ヘクタール 207,880千円
用排水路 17.307メートル 240,830千円
幹線農道 1.678メートル 251,290千円
着工 昭和五十八年 竣功 昭和六十四年
砺波地区土地改良総合整備事業促進期成会
(略 会長以下六十二名の氏名)
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灯籠(社前)は「村社昇格記念」「建設者 氏子一同」とある。
狛犬 七名の氏名の他「大正十三年九月十日建設 平成七年九月十日改修」とある。見たところ、台座部分を改修したやうだ。
灯籠(鳥居側) 銀婚記念 大正十四年五月十日建之 郷里 富山県西礪波郡津沢町蓑浦(*)村戸久新 移住 明治廿五年四月栗沢村礪波 現住所第七部 小西 楠重蔵 楠利喜蔵
*:蓑浦 津沢村はWikipediaによると、明治22年に蓑輪村、戸久新村ほかと合併して発足してゐる。昭和29年に西礪波郡所属となってゐる。合併に参加した村名に、灯籠の村名に一致する文字の村が無いので音が似てゐる蓑輪村のことだらうか。
当社でも倒れた木がある。平成30年9月の台風21号の影響と思ふ。
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