由 緒
元 村社
境内の掲示には次のやうにある。
由緒記
妹背牛町字妹背牛四百六拾六番地
妹背牛神社
御祭神 大巳貴神
大國魂神
少彦名神
祭祀 例大祭 九月十五日
境内地 壱壱千九百八拾四坪
當神社ノ起源ハ遠ク明治三十一年ニシテ 本町開拓ノ祖 森源三翁當地ニ産土ノ神無キヲ憂慮シ將來ノ人心統一平和発展偏ニ神佑ニ俟ツモノ多キヲ以テ敬神崇祖ノ念一層深カラシムル必要ヲ説キ 現在ノ地ヲ境内ト定メ神殿ヲ造營シ守護神トシテ官幣大社札幌神社(現在ノ北海道神宮)ノ御分霊ヲ請ヒ奉リ是レヲ奉齋シタルニ始ム
時ニ明治三十一年九月十五日トイフ
(碑背面に)
明治三十一年この地を鎮守の社を定め小祠を建て三柱の神を奉齋、大正四年中本新三郎氏、新田甚吉氏、太田金太郎氏、芝崎千代吉氏、広瀬福太郎氏らより境内地472坪の寄進を受け大正六年無格社として公認せられ、昭和二・三年御大典記念として現社殿の造營がなされ村社に列せられた。
社蔵記録によればこの時社掌浦音吉氏、総代山田久治良氏、若林綱造氏、小田周助氏、近藤六治郎氏、今井治吉郎氏、竹田定次郎氏、伊藤謙吉氏、後藤源吉氏らの名を見ることが出來る。
大東亜の戦をへて時局は、神社の維持に困難を極める時代となつたが、時の役員は勿論のこと氏子各位の敬神崇祖の念篤くこの難局を乗り切るに充分であった。
近年にあつては瑞垣、社務所、舞楽殿、廻廊の建設、参道の改修、昭和五七年には多年懸案であつた國有地421.8坪の購入、時の責任役員広田順之助氏、坂井利和氏、河嶋辰三郎氏、岩田英助氏、小畑正男氏、武田義雄氏、北原弥三郎氏、横井正五郎氏、長田秀男氏、藤江敏雄氏、村岡繁夫氏、高森仁作氏、金山成二氏、松田清三郎氏、監事北畑盛幸氏、桑島勉氏ら中心となり全氏子挙げての事業で神社史上特筆すべきことの一つである。
創祀以來多くの人々が神社の礎となられたが、この度、佐々原豊氏奉納のこの銘石に記し古を偲ぶよすがに出來るを感謝する。
宮司再拜
昭和五九年九月十五日を吉日と卜して
山下邦一 謹書
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由緒記にある「浦音吉」の名は深川神社沿革に二代目社掌として名を残してゐる。
| 雑 記
| 函館本線妹背牛駅の北0.3kmの所にある。
9月2日からの道内別表神社三社他の神社巡り二日目で、深川神社に続いて当社参拝、本日11社目。
着いたのは、16時直前で日が結構傾いてきたところ。
妹背牛町は、大正七年に深川村から分離して妹背牛村となり、昭和二十七年町制を施行してゐる。
妹背牛からバレーボールの連想があったが、強豪校だった妹背牛商業高校は、平成二十一年、廃校になってゐた。
石碑、玉垣等にその時々の気持を表す文章を刻み、残してゐる。それらを転記する。
御創祀九十周年記念御製碑 の背面に
御創祀九十年を祝い昭和六十一年秋奉賛会を結成し、多年懸案であつた社務所及職舎の増改築、御創祀九十周年記念碑の建立を計画、広く氏子各位の多額な浄財を戴き、翌六十二年八月竣工をみた。御創祀九十周年の今年、明治天皇の御製を謹刻以つて祈念の記しとし、この御製を奉唱する人々の心の鑑となればこれに勝る喜びはない。
追記(転記略)
昭和六十三年九月十五日
妹背牛神社御創祀九十周年奉賛会
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御製は、自分には文字が読めない。残念。
玉垣の一部分に石版を組入れて、次の文章を刻んでゐる。
御創祀百年を祝つて
明治三十一年この地を神鎮り給ふ社と定め時の官幣中社札幌神社の御祭神大國魂神、大那牟邇神、少彦名神の御分霊を奉戴し皇室の弥栄と国家の安泰は勿論のこと我町の安寧とを祈念して百年、常にも依し奉る大御稜威を感謝し、今平成の造営なつて遷座祭を執行出来た喜びを後世に伝えると同時にご奉賛下された氏子崇敬者各位の至誠にたいして衷心より感謝申上げるものである。又、足かけ三ケ年に及ぶ奉賛事業に日夜労を惜しまずご奉仕賜つた妹背牛神社御創祀百年記念奉賛会会長伊藤猪五郎氏、(ほか二十四名転記略)ら役員各位の芳名を録し深甚なる敬意を表するものである。
平成九年九月十二日御遷座の日に
妹背牛神社宮司 松田克雄
造営概要
建物
建物の面積 三十七坪にして神明造を基本とし本殿、幣殿拝殿、神饌弁備所、祭具室、向拝からなり北海道の気候を考慮して外部鉄筋コンクリート(内部木造)連結社殿とし屋根は木造置屋根銅板葺とした
関係業者(以下転記略)
玉垣の記
此の玉垣は、昭和三十四年四月十日皇太子殿下(今上陛下)ご成婚を御祝し且つ御皇室の弥栄を念じつつ同年九月十四日旧御本殿の瑞垣として奉献されたものでこの度当神社創祀百年を記念し社殿の御造営にともなって撤去の止むなきこととなったが、斎庭整備にともないこのところに移築し往時の人々の心を伝えるものである
平成九年九月十二日
妹背牛神社
御創祀百年記念奉賛会会長 伊藤猪五郎
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「忠魂碑」がある。
碑誌には次のやうに刻まれてゐる。
由緒
大正二年当時の在郷軍人分会長遠藤庄次郎氏らが中心となり 日清日露の戦役に没した當地出身者の御霊を偲び忠魂碑を建立 その後各戦役における戦没者をあわせ百七十一柱の英霊を祀りしが 風雪六十有余年を経て破損甚だしきために昭和五十五年九月改修する
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忠魂碑台座には英霊の氏名が刻まれた石がはめ込まれ、173の名がある。追加されたやうだ。碑背には「大正二年八月建之」とある。
境内には、「道営客土竣工碑 北海道知事 堂垣内尚弘」書 がある。碑背には、次の文言が刻まれてゐる。
新しい農業経営の安定を図るため 農業近代化えの基盤を早急に確立する目的で 道営による客土事業を計画 昭和三十九年一月地域農家261戸参加のもとに期成会を設立早期事業着工に努力する
昭和四十年道の認可を得て昭和四十一年事業に着手以来七年の歳月と九億五千八百万円の巨費を投じ977ヘクタールの圃場に六十一万四千立方メートルの運搬土をダンプトラックにより客入 昭和四十七年二月此の大事業を完成する 事業完成に至る間関係諸官庁並に地元諸団体工事施工関係業者さらに積雪寒風の下自らトラクター馬橇等を利用総力を挙げて全土量を圃場内に運搬された受益者各位の努力に対し深甚なる感謝と敬意を表するものです この事業完成により地域農業の基盤が確立経営が益々発展されんことを祈念しこの碑を建立する
昭和五十四年四月十二日
妹背牛地区道営客土事業促進期成会々長 山城良造
(以下転記略 期成会役員・事業協力者・代議員、事業施行者 凡そ250名と組織名)
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村の基幹産業は農業で、町の面積の75%が耕地で、耕地の75%(町面積の55%)が主食用米となってゐる。
予期してゐなかったが、社務所で呼鈴を押すと、御朱印の対応をして頂けた。
玄関内には石炭に彫刻を施した置物があって、どこの炭坑の石炭かと思ひ伺ったところ頂き物で不詳とのこと。妹背牛町は平地で山(炭坑)は無いと理解してゐたので納得した。親宅にも石炭に寿と彫った置物があったので、気になった次第。
16:15、当社を出て、11 km離れた雨竜神社へ向った。
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