よみ
長沼神社 (北海道〈空知〉長沼町)
| 所在地
| 〈空知管内〉長沼町宮下2丁目11-3 (43度0分40.48秒 141度42分15.05秒)
地図:地理院地図
いつもNAVI
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地 図
| 参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
・東西290km 南北270km
・+印:当社位置
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・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
・○印:本殿の位置
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HP等
| ・北海道神社庁 北海道の神社 長沼神社
・当社HP
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祭 神
| 大國魂神(おおくにたまのかみ)
大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
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由 緒
元 郷社
境内の掲示には次のやうにある。
長沼神社記要
北海道夕張郡長沼町鎮座
一、祭神
| 長沼神社は、大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の三神を祀るお社で、大那牟遅神は又の名を大国主神と申しあげ、国土の守護神・商売繁盛・五穀豊穣・縁結びの神として知られ、少彦名神と共に医療・医薬・温泉の守護神、病気平癒・健康の願いを叶える神として特に信仰がが篤い。
| 一、祭典
| 一月一日元旦祭・一月十五日どんと焼祭・四月十五日春祭・七月二日大祓、半夏生祭、水祭・八月十七日相馬まつり、八月二十日招魂祭・九月十五日例大祭(神輿渡御)・十一月二十三日新嘗祭・十二月三十一日大祓式、除夜祭。
| 一、由緒
| 明治三十三年頃長沼市街地に小社殿を建築し奉斎したのが長沼神社の前身とされる。大正二年元官幣大社札幌神社(1)の御分霊を御祭神として奉斎する鎮座地[現在地]を定め、社殿建築。大正十三年長沼神社創立許可、当年村社に列せらる。昭和十二年開村四十周年記念として壮麗なる御社殿[現存]の御造営成る。昭和十六年郷社に昇格。忠魂碑建立。昭和二十一年宗教法人による神社神道の神社として認可される。昭和四十二年社務所[現存]改築落成。
| 一、境内
| 四千四百八十坪。御神木の一位を始め、約六十種類もの樹木が繁茂し、森厳なる聖域をなしている。
| 一、氏子
| 長沼町一円
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平成五年四月 謹記
宮司 菅原邦夫
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北海道神社庁誌には次のやうに載ってゐる(2)。
由緒 明治三十三年長沼市街地に小社殿を建築し奉斎し、後に東三線北五番地の高台に移転し奉斎したのが、長沼神社の前身とされる。大正二年六月、官幣大社札幌神社(1)の御分霊を御祭神として奉斎する鎮座地(現在地)を定め、社殿を建築し遷座祭を斎行した。大正十三年七月長沼神社創立許可。同時に村社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定される。昭和十年開村四十周年を記念し御社殿の御造営に着手。北海道庁の設計により元の樺太神社を基本とし、昭和十二年神明造の壮麗なる御社殿が完成し遷座祭を斎行、社務所移築完了した昭和十六年郷社に昇格。長沼総鎮守として社運隆盛の基が築かれた。昭和二十一年宗教法人設立。昭和四十二年現在の社務所改築落成する。
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| 雑 記
| 長沼町役場から東へ0.8km、室蘭本線由仁駅から西へ7km、札幌駅からは東ないし東南東へ33kmの所にある。
住所は、神社庁誌には、長沼町字馬追原野2980番地とあるが、住居表示が宮下2丁目と変更されてゐるやうだ(場所は同じ)。
写真を見ると、紅葉が綺麗だ。目で見ると、細かな粗が沢山見えて、それほどとは感じなかったけれど。ただ、社務所前から見た紅葉は殊の外綺麗だった(写真106kB)。
御朱印を頂いた際、倒木について触れたら、地震(9月5日発生)で玉垣等の倒壊があって、困った事だとの事。
石造物は色々あった。以下のものが目を引いた。
- 忠魂碑 表に「忠魂碑 陸軍中将正四位勲一等功二級上田有澤撰書」、碑背には、「紀元二千六百年記念 長沼村忠魂碑建設会」 とある。また、台にはめ込まれた銅板によると平成十七年に修復され、また、タイムカプセルが埋設され埋設から50年後の八月十五日(終結百十年目)に開けるとしてゐる。五十年後といふと修復に係はった人達は誰も生存してゐないかも知れない。どこかに記録しておくより碑に記しておくのは良い考へだ。あと三十五年。
- 鎮魂 碑 「長沼町長 中川 清 謹書」 とある。長沼町出身戦没者として350名以上の氏名が刻まれてゐる。「昭和五十二年八月十五日、長沼町傷痍軍人会建立者 (13名の氏名 略)」とある。
- 社号標 二柱ある。古い方から「長沼村鎮守 長沼神社」、背面に「官幣大社香取神宮宮司正五位宮沢春文書」「昭和七年六月二日 奉納 還暦記念 笹川スミ」とある。 もう一方は、「鎮守長沼神社」、側面に「紀元二千六百二年九月立 創立記念 長沼合同製菓有限会社」とある。
- 水霊之碑 碑背に「昭和五十二年七月二日建立 長沼町水まつり奉賛会」とある。当社HPによると「水害が多かったことから治水を祈り水祭りが行われます」といふ(3)。碑の脇に、「故保原元二之碑」がある。氏は、「住民の懇願で道庁から派遣されたのは、保原元二でした。約40キロの旧夕張川の途中から約11キロの新水路「新夕張川」を引き、石狩川に直接流す工事を考え、指揮をしました。一帯は泥炭地。ほとんど人の手で掘り進める工事は難航しました。多くが東北出身の労働者は、午前3時に起床、午後8時ごろまで働く毎日でした。15年の歳月をかけ工事は1936年(昭和11年)に完成。住民の切実な願いだった水害の根絶に、大きな貢献を果たしました。」(4)といふ。夕張川新水路は、平成23年に土木学会選奨土木遺産に認定されてゐる(5)。
- 馬頭観世音
- 地神塔 五角柱で、大已貴命、天照皇大神、伊弉諾尊他
15時25分、南幌神社へ向けて当社を発った。北西へ、道程9.0km。
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