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南幌神社 (北海道〈空知〉南幌町)

参拝日 平成30年11月1日(木)
作成日 令和2年2月22日(土)
追記日 令和6年3月26日(火)
よみ  なんぽろ じんじゃ  
所在地 〈空知管内〉南幌町緑町5丁目6番1号 (43度3分55.68秒 141度39分30.32秒)
 地図:地理院地図
    いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 南幌神社
祭 神  天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 八幡大神(はちまんおおかみ)
 伊弥彦大神(いやひこのおおかみ)
 白鳥大神(しらとりのおおかみ)
由 緒  元 村社
 北海道神社庁誌には次のやうに載ってゐる(1)
由緒 明治二十七年宮城県角田、明治二十九年新潟県西蒲原郡弥彦村、明治二十九年三重県津市、明治三十三年岐阜県より入植した開拓団の守護として各開拓地に創建されていた祠を、開拓の進む当時の幌向村の守護である鎮守として合祀し幌向神社と称し、明治四十三年無格社に列せられたと云う。大正九年現在地に遷座し村社、昭和二十一年宗教法人設立。昭和三十八年町名変更により現在の南幌神社に変更する。
 南幌町百年史には五ページにわたって記載がある。長いが、草創期の記述を中心に引用する(2)。太字は引用者が付した。
 南幌(幌向)神社は、各開拓地に建てられた無願神社の祭神を合祀して創立し、本町の守護神としたのである。
 石川団体の奉祀の状況は、明治27年団体長である石川邦光が、郷里宮城県伊具郡角田村に鎮座する八幡大神の分霊を奉遷し、移住地内の南16線西6番地に祠を建てて祀り、毎年9月19日を例祭日とした。明治29年松井倉蔵が石川開墾地を譲うけ開拓に従事したが、翌年5月新潟県西蒲原郡弥彦村鎮座国幣中社伊弥彦大神の分霊を奉遷して八幡神社に合祀することとし、氏子より寄付を募集して社殿を改築、9月15日遷座式を行った。神職には、長沼町に在住する従七位権中教正実吉賀之丞が就任し、同日を例祭日と定めた。
 三重団体では、移住団体の規約に基づき、明治27年9月15日南12線西4番地に、伊勢大神宮遙拝所を設置して奉拝していたが、明治29年9月その地に祠を建て、翌30年9月17日団体長板垣贇夫が所有地2反3畝歩を寄付して三重県宇治山田市鎮座伊勢神宮より天照大神の分霊をうけ、無願五十鈴神社を創建し毎年9月15日を例祭日と定めた。
 五十鈴神社は、三重団体の守護神として奉祀したが、その後徳島、富山、福井等各県人が続々来住し、氏子も増加したので、明治43年社殿を改築し、神社を維持経営するため基本財産として、南幌町834番地、畑4町3反歩(約4万3140平方メートル)、同835番地畑5反3畝17歩(約5273平方メートル)を購入し、社号公称の準備をし、大正2年10月28日住民133名の連署により、神社創建願いを内務大臣に提出したが、これは認可にならなかった。
 福井県出身者が多く入植した地域では、明治30年4月多田宇市が南15線西11番地に八幡大神を祀り、八幡神社と称し、毎年8月15日を例祭日と定めた。
 晩翠(ばんすい)地域では、明治28年6月15日垂水幸五郎、林栄作、笹部甕雄、渡辺浜太郎らが発起人と成り南13線西17番地白鳥(しらとり)沼堤塘地に、日本武を祭神とした白鳥神社を創建した。翌29年垂水は、故郷の彫刻師音五郎に依頼して、祭神の像を造り安置した。33年に至り岐阜県人笹部甕雄が熱田神宮より分霊を奉遷し合祀した。その後老朽化が進み、大正13年4月7日、南13線西14番地(現在の第二消防分団庁舎隣)に神社用地を購入し「晩翠神社」と改称し移転改築建立した。昭和49年4月の大風により、社殿が倒壊したため、同年9月3日南幌神社に合祀した。
 このほかに夕張太、飛騨(鶴城(かくじょう))、中樹林等にも、個人、あるいは2、3の人々で相談のうえで建てた祠があったが、後々その住民一同が奉祀するところとなった。
 明治42年春、(中略)無格社幌向神社を創立することになり、(中略)神社創立願を翌43年8月29日に提出、同年11月16日付で認可になった。神社は、石川部落の八幡神社を昇格したのである。(中略)

【以下、要約】

 大正七年に至り、社殿の腐朽、9月の暴風雨被害を機に、空知支庁長の各部落の神社合祀案に沿って、有志の奔走により、無格社幌向神社を村の中心に移転し、村社として村内各部落の神社を合祀することとなった。合祀祭神は、天照大神、八幡大神、伊弥彦大神、白鳥大神の四柱であり、合祀許可は大正9年1月17日付で、更に同年8月27日に村社、10月22日に神饌幣帛供進神社に指定された。
 社殿は、大正8年に建築したものは昭和34年に改築。
 社務所は、昭和7年26坪のものを建築、昭和36年に32坪のものに改築、昭和56年に一部二階建て104坪の神職住宅を含むものに増改築した。
 社地は、戦後の農地改革により5町2反余(52反)から境内地 5.5反、境外地 2.4反となった(3)
雑 記  南幌町役場から東北東へ0.7km、函館本線江別駅から10km、札幌駅から東へ28kmの所にある。

 当社にも倒木があった。また社務所の屋根・テレビ受信アンテナが破損してをり、倒木が当ったのではないかと思ふ。(9月4日夜から未明の台風21号による被害)

 石像物には
・開墾碑 明治三十九年九月の日付があり、「開墾碑」と陽刻があり、碑文は「松井君幌向村開墾碑 海軍中将正二位勲一等子爵榎本武揚篆額 闢荒蕪為膏𦚤移戸口為富民如松井君者世多不見其比矣……」と漢文。越後蒲原郡松長村の松井倉蔵が先に入植してゐた石川邦光から土地を譲受け、越前越中越後磐城飛騨阿波讃岐の七州の民三百九十人を率い、夕張川の洪水防止に築堤し、水はけの悪さに排水路を造り、百五十町余の良田を造った、その功を記したもの。台座には「平成12年11月15日 寄贈 新潟市 松井悌二」とある。
・狛犬 元大野神社 敷地寄付者 其土地代ニテ建之 (以下氏名列記)とある。福島県人が多く入植した大野開墾地に祀った八幡神社を大野神社と称したやうだ。昭和七年九月の年記がある。
・石川邦光翁開拓之碑 小平忠書 (小平忠は、民社党の衆議院議員として良く記憶してゐる) 「昭和五十一年十一月 有志一同建之」とあるが、碑文は汚れが付いて読取り難かった。石川邦光は仙台藩一門筆頭として戊辰戦争で活躍したが、仙台藩降伏のため失領。宮城県伊具郡角田町初代町長をへて幌向に77戸250人余を率いて入植した(4)

 南幌町は、明治42年に幌向(ほろむい)村として成立、昭和37年に南幌(みなみほろ)町に改称、昭和43年に字は同じで読みを「なんぽろ」と改称。
 旧社名は、幌向神社と知った時は疑問がわいた。村名が幌向村だったからといふので一応納得だが、函館本線に幌向駅があって当社からは10km北にあるし岩見沢市域だから当地とはつながらない。Wikipedia(5)を見たら、幌向とは岩見沢西部(旧北村の南部)から南幌町全域と江別市の東に渡る広い地域の名称だったと判った。南幌にはかつて夕張鉄道の南幌駅があったが、昭和5年の開業時は南幌向(みなみほろむい)駅、昭和38に南幌(みなみほろ)駅、昭和43年に南幌(なんぽろ)駅と改称し、昭和50年に廃止となってゐる(6)。ここまで調べて納得した次第。
 
 16時10分、早苗別揚水機場神社へ向けて当社を発った(道程8.0km)。
 なほ、翌日、御朱印を頂きに再来。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  鳥居は昭和41年九月、社号標「南幌神社」は昭和42年四月建之


写真2



写真3


写真4


写真5


御朱印


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.458
  2. 『南幌町百年史 下巻』平成五年十月 南幌町編纂委員会 p.310-314
  3. 境内地5.5反:北海道神社庁誌によると境内地は3000坪(10反)となってゐる。
  4. 令和2年2月18日閲覧 ウィキペディア(Wikipedia):石川邦光
  5. 『日本鉄道旅行地図1号 北海道』 (株)新潮社 平成20年
  6. 令和2年2月18日閲覧 ウィキペディア(Wikipedia):幌向

改訂記録
  • 令和06.03.26 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。

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