由 緒
神社本庁包括外神社。
夕張市史には次のやうに載ってゐる(1)。
南大夕張山神社 旧神社は南部小学校左上にあったが、昭和二年北部へ移行した際放置されたままであったのを、昭和六、七年ころ当時部落の氏子総代であった沢木善太郎が中心となって、同小学校下に社殿を新築し守護していたものである。
昭和四十五年新鉱操業開始とともに三菱大夕張鉱業所では五月十四日これを現在地に移設、南大夕張山神社と改称した。
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補足 広義の大夕張は、南部地区と北部地区(のちの鹿島)があり、北部は狭義の大夕張で、シューパロダム(平成26年湛水開始)により水没した。
北海道神社庁誌には次のやうにある(2)。
所在地 夕張市南部大宮町5
例祭日 五月十二日
祭神 大山津見神、大國主神、鹿屋野比賣神
社殿様式 神明造
社殿面積 三坪
由緒 (夕張市史と同文)
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| 雑 記
| 石勝線新夕張駅から北北東へ11kmの所にある。昭和62年7月に廃線となった大夕張鉄道南大夕張駅跡(保存車両がある)からは西北西へ200m足らずの所になる。
大夕張鉄道は昭和62年に廃止となった。廃止時の終点南大夕張駅跡には、三菱大夕張鉄道保存会が保存・修復作業を続けてゐる保存車両がおかれてゐて、客車の中を見学できた。尚、石炭やメタノールの輸送が主で、客車と貨物の混合列車運行もあった。ホームの跡のみが残ってゐて、石炭積込み施設や多数の引込線の跡等は残ってゐない。
写真にある路線図は、地図には昭和31年6月現在とある(なほ、北海道庁拓殖部植民軌道の名があるが、同軌道名は昭和23年までなので細部には古いままな所もある模様)。夕張・大夕張の辺りは触れる人がゐるのか、表示がかすれて読取れなくなってゐる。北海道内には実に多くの鉄道があった。
参道入口から清水沢方(西)へ400mほど行った道路沿ひに、「南大夕張炭鉱殉職者慰霊碑」の看板が立てられゐて、立寄ることにした。大きな建物があり、「南部市民体育館」で、その脇を奥へ通って行くと「殉職者慰霊碑」があった。当初、夕張川の対岸の南部青葉町に建立されたが、ダム建設のため、南部新光町の「わかくさ幼稚園」跡地に移されてゐた。体育館はもと三菱大夕張体育館だったが平成2年の閉山とともに夕張市に譲渡された。碑文には次のやうに刻まれてゐる。
碑文
昭和六十年五月十七日の災害により職に殉じられた方々の一周忌に当り、当炭山の殉職者諸氏英霊の為に慰霊の碑を建て、永く御冥福を祈念するものである。
昭和六十一年五月
三菱石炭鉱業株式会社 '
社長 森本 輝
南大夕張鉱業所 神谷 新
謹誌
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「災害」とあるが、普通に云ふと事故で、死者62人を出すガス爆発を起し、平成2年に閉山した。原料炭を生産してゐるから大丈夫(閉山しない)と云はれてゐた。しかし、ガス量が多く、採取したメタンからメタノールを製造し「1960年代中頃までは、大夕張の工場一つで全道のメタノール需要をほぼ賄えた」と云ふ。結果として事故防止と営利の両立が出来なかった。
悲しいかな、今の地図を見ても青葉町が何処にあったのか判らない。「わかくさ幼稚園」跡地も、多分、碑のある現在地だと推測するのだが、今の地図では確かめようが無い。
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