神社訪問記HP北海道空知管内 > 夕張市

夕張市神社 (北海道夕張市住初)

参拝日 平成30年5月27日(日)
作成日 令和元年6月25日(火)
追記日 令和6年4月4日(木)
よみ  ゆうばり じんじゃ  
所在地  夕張市住初(すみぞめ)6 (北緯43度3分52.82秒 東経141度58分54.12秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  北海道神社庁 神社詳細 夕張神社
 Wikipedia:夕張神社
祭 神  大山津見神
 大國主神
 鹿屋野比売神
 菅原道真公
由 緒  旧郷社。
社頭の掲示には次のやうにある。
夕張神社由緒之記
一、御祭神 大山津見神 大國主神 鹿屋野比売神 菅原道真公
一、由緒  明治二十二年十一月十八日、北海道炭鉱鉄道株式会社の設立と共に夕張炭山並びに鉄道敷設による安泰祈願の斎社として、登川村夕張炭山字社光に神殿を築造せられたことが発祥となり、井上角五郎大人により、伊予一の宮大山祇神社並びに島根県出雲大社の御奉遷を願い奉斎す。
 これ御創立の由来にして、同会社社長高島嘉衛門大人の意志により、社光より現住初に神地を求め移転し登川神社と称号 崇敬を集めて居る内、大正十年五月、登川神社の社殿社務所外一切を類焼、大正十二年再建せられ同年夕張神社と改称 昭和四年村社、同九年郷社に昇格、この間明治三十八年日本海大海戦以来本神社と因縁浅からぬ、海軍元帥東郷平八郎閣下より自筆の御神額の奉納あり、昭和二十年になり宗教法人として発足昭和三十八年本宗大山祇神社、昭和四十二年出雲大社より各御神宝の下附が與えられ昭和四十六年文祖菅原道真公の御神霊の御分与の許可を共に十月二日御奉遷の儀を斎行す。
一、建造物 本殿・幣殿、拝殿・神饌所・神輿殿・手水舎・社務所・参集殿
一、境内地 壱千五百拾貳坪・境外地八千七百坪
一、氏子  夕張市一円
夕張神社

 夕張市史には次のやうに載ってゐる(1)
夕張神社縁起  明治二十三年四月夕張炭山の開坑が始まり、九月鉄道敷設工事が開始されたが、当時坑夫・人夫等は仕事に熟練していなかったので死傷者が相次ぎ、坑夫の中には「山神様が幾万年もの間秘蔵していた宝物を人間が勝手に掘り出したので、山神様の怒りにふれ祟られたのだ」と信じ、恐怖心をいだく者もあり、当時の有志片桐忠七・石川市太郎(飯場主)松尾国太郎(飯場主)らが発起人となり、採炭所次役古川浩平の賛助をえて斜坑の上(現社光一区)松尾国太郎が営んでいた浴場の右方に、九尺四方の神社を建築し、炭塊を御神体として山神を奉祀したのが始りである。
 明治二十六年一月坑夫の暴動があり、坑夫の中には逃亡するものや商人で離散する者も出てきた。さらに一番坑のガス爆発(七月か、記録不明)等の惨事がおきたため炭山全体が浮き上がり収拾できない状態になった。たまたま事業視察に来山した当時の北炭社長高島嘉衛門(号呑象・後に高島易断を著した。)が現地の状況を見て『当炭山は有望で、二、三年をまたないで全国無比の炭山となること疑いなく、ただ神社の向きが鬼門の方向にあたるので縁起が悪く、このため不慮の災害が頻ぱんにおこるのだ』と自ら易をたて北山(現住初の上方・旭台)の頂上を神社の社地と定めた。翌二十七年四月由仁・角田方面より神官を招き神殿を遷座し登川神社と称した。五月会社ならびに有志一同盛大に祭典を執り行ったが、これより毎年五月十二日を例大祭と定められた。翌二十八年新潟県中頸城郡の県社居多神社の社掌であった花前盛正(権中講義)が来山していたので、これを迎え社掌とした。
 明治三十一年一月五、六の両日にわたって第一斜坑、本坑一番坑道にガス爆発・火災があり死傷者40名を出したので、当時北炭専務であった井上角五郎が来山事故を視察したが、登川神社のご神体が一個の炭塊であることを知って驚き、「わが国神代の昔から山神といわれるものは大山祇神かあるいは大国主命であるから、この二神を祀るべきである」といい、郷里備後の大社沼名前神社の宮司飯田 誠にはかり、旧史・古典を調べ自費で大山祇神・大国主命・茅野姫神三神の像の製作を美術学校に依頼し、これを夕張・空知・幾春別・幌内の四炭山に御神体として贈った。同年十一月三日ご神体奉置式を行い、併せて鎮火祭を行った。
 (以下略)
雑 記  夕張市役所から北東へ1.1kmのところにある。今年4月に廃止となった夕張駅からは北東へ2.0kmの位置にあった。開業当初の明治25年から昭和60年までの駅の位置は、廃業時の駅から2.1km先の、当社から左手下にあった。

 市内各地の神社が閉山により住民がゐなくなり、夕張神社に合祀されたと思はれるが詳しくは判らない。 昭和56年発行の夕張市史によると、
・新夕張神社 明治35年建立、昭和38年北炭夕張鉱業所第三鉱の閉山と共に廃社
・若菜神社  昭和50年平和鉱閉山にともない廃社
がある。

 「夕張神社 御創立百周年記念碑」(昭和63年)があり、記念事業奉賛者名には、政治家や歌手といったなじみのある個人名のほか町内会、北海道炭鉱汽船、北炭真谷地炭坑、北炭建設、夕張鉄道、三菱南大夕張鉱業所、石炭の歴史村観光、拓殖銀行、といった時代を感じる企業名が刻まれてゐる。
 海上自衛隊の名もあるのは護衛艦「ゆうばり」(昭和58年就役、平成22年除籍)の艦内神社が夕張神社の御分霊と云ふことの縁だらう。連合艦隊の軽巡洋艦「夕張」(大正12年進水、昭和19年沈没)にも夕張神社の御分霊が祀られてゐた。


 当社参拝後は、石炭博物館へ行った。4月28日にリニューアルオープンしたばかりだった。写真下方に模擬坑の説明等を記した。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2


写真3


写真4


写真5 写真6 向拝の扁額、拝殿内に掲示してある額(いずれも、東郷平八郎元帥書)。元帥は、北炭の優良炭に感謝の念を抱いてゐたと云はれ、火災後の神社再建の際、北炭の関係者からの依頼により揮毫したと云ふ。


写真8  社頭の社号標





写真7  参道入口方を望む


写真7(部分拡大)  写真7の「ずりやま」部分拡大、樹が生えてきてゐる


御朱印



模擬坑
 本物の坑道と炭層(石炭)を使って採炭・探鉱等の様子を再現してある。模擬坑入口の案内掲示(横書)には次のやうにあった。
国登録有形文化財
旧北炭夕張炭坑模擬坑道
これから入坑する模擬坑道は、1900年(明治33年)、北海道炭礦鉄道株式会社(のちの北海道炭礦汽船株式会社(北炭)が石炭生産のために開坑した第三斜坑(のちに「天竜坑」と改め)の一部につくられました。天竜坑は、ガス爆発などの災害が多発しましたが、やがて採炭方法の発達にともない、石狩坑や大新坑とともに北炭の中心的な炭坑としてその役割を担っていた坑口です。
1938年(昭和14年)皇族照宮が見学したことを始まりに、皇族が訪れる毎に改修され、1954年(昭和29年)昭和天皇訪問にあわせて当時最新の採炭機械が設置され見学可能な模擬坑道としての完成をみています。その後も、運搬・採炭・保安などの炭坑設備を使った炭坑救護隊の実地教育や、鉱員養成の現場として、また一般市民や小学生の社会科見学にも使用されてきました。炭坑が閉山した後、1980年(昭和55年)の夕張石炭の歴史村建設計画の一環による再整備によって見学施設としての環境が整備され、補修を繰返しながら炭坑の歴史を伝える場所として現在に至っています。

転記者註 皇族照宮:照宮成子内親王殿下。上皇陛下の姉、昭和天皇の第一子、昭和18年結婚、盛厚王妃成子内親王殿下となり、戦後皇籍離脱し、東久邇成子となった。昭和36年没(35歳)。

 模擬坑道の深さ20m、石炭は強粘結瀝青炭、約5千万年前(新生代古第三紀)の地層という。ポンプ場の壁に8尺層といふ表示があった。照明はあるものの、石炭は黒いのでよく見えない。実際の採炭現場は、もっと暗く、炭塵が舞ひ、騒音が大きく、暑く、過酷な環境だったと思ふが、模擬坑では想像できない。数値で表現してくれないかな、そして、坑道の立体模型や3D映像に表現できると、苦労がわかりやすくなると思ふ。しかし、再現するだけのデータが無いのだと思ってゐる。炭坑に付きもののガス(メタンガス)は、放出しきってゐるから全く無い。
 今年(平成31年)4月18日に模擬坑道で火災が発生し、注水による消火が行はれ、5月13日に鎮火したと判断された。石炭だから燃えるに決ってゐるのに火災を起すとは、どんな仕事をしたのか、とあきれる。操業中だったら大勢の犠牲者が出たかも知れない。博物館は6月8日に開館したが模擬坑は閉鎖されてゐる。復旧されるのかどうかさえ未だ判らない。
 もっと沢山の写真を撮っておくのだったと後悔。


写真9  模擬坑入口。ここを降って行く。壁は大正時代の煉瓦巻となってゐる。
    拡大(2000×1500 723kB)


写真10  模擬坑内部の切羽(採炭現場)。写真右の壁が炭層、左は自走枠。自走枠で天盤を支へながら石炭の壁を削り取つてゆく。鉄柱1本で40トンの荷重に耐える。
     拡大(2000×1500 825kB)

出典・脚注
  1. 「増補改訂版 夕張市史下巻」 夕張市役所 昭和五十六年発行

改訂記録
  • 令和06.04.04 (1)ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 (2)写真に番号を附した。 (3)模擬坑内写真に拡大写真(2000×1500)をリンクで加へた。 (4)写真10の説明に補足のため文言を加へた。

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)
inserted by FC2 system