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十勝神社 (北海道〈十勝〉広尾町茂寄)

参拝日 令和3年5月31日(月)
作成日 令和4年1月2日(日)
改訂日 令和6年2月21日(水)
よみ  とかち じんじゃ  
所在地 〈十勝管内〉広尾町字茂寄(もより) 1-13
  (42度17分27.49秒 143度18分37.91秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 十勝神社
祭神  大綿津見神(おおわたつみのかみ)
 保食神(うけもちのかみ)
 塩土老翁神(しおつちのおぢのかみ)
由緒  元 県社
 北海道神社庁webには次の様に載ってゐる(1)
由来
寛文6年(1666)6月福山藩主武田廣林の十勝国警衛の祈願社として領主蠣崎蔵人が創祀し、当時より刀勝大明神と称えて鎮祭していた。その後シマウス海岸に漂着した流木が龍神の形のようだったところから神体として祀るようになった。爾来漁業が豊かになり地方の崇敬は益々厚くなり、この流木に彫刻を加えて木像とした。その年月日は不詳であるが丈4寸余りの小像で聖徳太子に似ていたと伝えられる。寛政10年(1799)11月には近藤重蔵がエトロフよりの帰路、広尾・様似間の新道開発の記を献額している。明治7年開拓使社寺係取調の際広尾出張所派出14等出仕酒井忠郎が調査上申の末、同8年12月社寺係の通達により仏像及び仏具は悉く退け、同時に祭神を大海津見神と称号することとし、明治9年3月郷社に列せられる。同16年社殿の損壊に伴い改築及び鹽竈神社・稲荷神社の合祀を出願し許可される。同22年6月30日社殿が落成し、大正4年9月神饌幣帛料供進神社に指定される。大正5年5月移転改築が許可され同7年12月現在地に改築竣工し奉遷した。昭和20年県社に列せられ、昭和21年宗教法人となる。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
 稲荷神社 保食神   天保6年3月16日創祀 明治21年5月合祀
 鹽竈神社 塩土老翁神 安政7年2月創祀   明治21年5月合祀

 広尾町観光協会web(2)には次の様に載ってゐる。
十勝で最古、北海道でも有数の歴史を誇る神社です。御朱印は「十勝国一ノ宮十勝神社」。創建は不明ですが、1600年代とされています。
社宝として江戸の探検家、近藤重蔵の「東蝦夷新道記彫字板」を所蔵しており、北海道指定文化財の指定を受けています。現在の社殿は昭和17年(1942年)に完成したもので、春には記念として境内に植えられたエゾヤマザクラが見事に咲き誇り、桜の名所としても知られています。
十勝神社前の公園にて毎年夜桜のライトアップを実施しています。

 古今御朱印研究所の十勝神社(3)に、塩釜神社・稲荷神社について次の様に記してゐる。
鹽竈神社は、安政7年(1860)2月、十勝を領地とした仙台藩の陣屋に奥州一宮の鹽竈神社から御分霊を勧請したものである。明治16年に社殿が損壊した後、奥州の鹽竈神社に戻されていたが、明治21年(1888)合祀の許可を得、明治22年に合祀した。

稲荷神社は十勝神社の境内社で、天保6年(1835)神祗伯家の勧請と伝えられる。明治16年に社殿が損壊した後は本社に祀られていたが、明治21年に合祀の許可を得、明治22年正式に合祀した。
雑記  実質的な最寄駅は根室本線帯広駅で、北(352°)へ70kmのところにある。昭和7年から昭和62年までは広尾線広尾駅が参道入口から北北西へ0.5kmの所にあった。

 北海道指定文化財の「東蝦新道記(とうかしんどうき)」が当社に所蔵されてゐると云ふ。平成5年設置の境内掲示(写真付)、および文化遺産オンライン(3)によると、
 「東蝦新道記」とは、近藤重蔵らが択捉島に渡り標柱をたて、帰途広尾に逗留した際、私費で日高に至る海岸の険に11kmの山道を付けた。工事の顛末を板に彫刻し刀勝神祠(とかちしんし)に掲げた。「日本寛政十年戌午十一月朔庚申」と日付が刻まれてゐる。板が傷んだことから寛延元年(1860)に再書、再鐫(さいせん)したもの。一時行方不明になったが大正10年に発見され買戻された。蝦夷地道路開削の嚆矢で、また松山藩領への道路開削の果断は後世の史家の賞するところ、
と云ふ。寛政10年は西暦1798年。
 境内の掲示板の写真は文字が鮮明で読みやすい(写真10参照)。文化遺産オンラインの写真は板の雰囲気が出てゐる。それにしても読下し文、しかも振仮名付があると有難いのだが……。なほ、明治神社誌料には返り点付で載ってゐるので、随分読みやすかった
 海岸線の道は今でも黄金道路と云はれるほど道路の維持に悩まされる難所となってゐる。山道を選んだのも頷ける。


 御朱印の頒布は中止してゐた。新型コロナウィルスの流行を鑑み、とのこと。
 流行のピークは過ぎたとは言へ、警戒されてゐるなか旅行に来たのだから仕方ない。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

社号標背面に「参百五十年祭記念 平成二十八年九月二十一日 奉納者 蜂谷克已 十勝開運株式会社 池下産業株式会社 アカイン建設株式会社」とある。

鳥居は昭和三十九年九月奉納。

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

参道。見へてゐる鳥居は二ノ鳥居。

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

社殿正面

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

斜め前から見た社殿。

拝殿の奥行がある。

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

御本殿

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

拝殿内

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

広尾町指定文化財 手水鉢
天保七年(1836)三月トカチ会所の福島屋支配人喜右衛門がトカチ場所で働く者一同の(広尾会所、庶野、音調津、当縁、大津番屋あり)平安無事を願って、トカチ明神社に奉納したものである。
 灯篭は台上1.55米、材質が花崗岩で左右一対である。


写真8
写真8 拡大 (1280×960)

広尾町指定文化財 石灯篭
慶応二年(1866)十勝場所請負人福島屋の雇船であった越後、糸魚川の大野屋源右衛門所有の北前船「嘉宝丸」の船頭喜次郎が航海の安全を祈って、トカチ明神社に奉納したものである。


写真9
写真9 拡大 (1280×960)

参道の階段30段を登って振返った。見へてゐるのは二ノ鳥居。

写真左下に写真8の灯篭上部が写り、写真右側には手水舎が写ってゐる。

写真10
写真10 拡大 (540×1280)

東蝦新道記(とうかしんどうき)

境内に設置の掲示から引用。掲示は600余字の説明文と引用の写真で構成され、「平成5年8月21日 広尾町教育委員会 広尾町郷土研究会」の日付と名が添へられてゐる。文化財指定は昭和63年1月18日とある。


出典・脚注
  1. 令和3年12月24日閲覧 北海道神社庁 北海道の神社 十勝神社
  2. 令和3年12月31日閲覧 広尾町観光協会 観光スポット 十勝神社
  3. 令和4年1月1日閲覧 古今御朱印研究所十勝神社
  4. 令和3年12月31日閲覧 文化遺産オンライン東蝦新道記 とうかしんどうき

改訂記録
  • 令和06.02.21 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。

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