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音更神社 (北海道〈十勝〉音更町)

参拝日 令和3年5月30日(日)
作成日 令和3年12月11日(土)
改訂日 令和6年2月21日(土)
よみ  おとふけ じんじゃ  
所在地 〈十勝管内〉音更町元町3-9 (42度59分32.87秒 143度11分48.22秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 音更神社
・当社HP
祭神  天照大御神 (あまてらすおおみかみ)
由緒  元 村社
 北海道神社庁のwebには次の様に載ってゐる(1)
由来
明治33年9月、仁礼子爵の経営に関る音幌農場内に神祠を設け、天照皇大神を祀り音幌神社と称したのを創祀とする。翌、34年9月に音更村開基と共に音更神社と改称し、現在の音更町元町に遷座する。大正11年には昭和天皇行啓記念として、高台と下台を結ぶコンクリート製階段等を設ける。昭和8年には村社として列格される。又幣帛供進社として指定村社の列格をも受ける。昭和21年宗教法人となる。爾来数社の社を合祀し、町の総鎮守として氏子・崇敬者の参拝を受ける。昭和62年には参集殿、平成の御大典記念には御神池の改築等、弥々境内整備も進み御神威高揚と共に参拝者も増えている。本殿においては90有余年経過し、平成11年、御創祀百年記念事業として社殿の造営がなされ、平成14年に社務所の改築が成され、平成21年8月には御創祀百十年記念事業として、正参道(200m)の全面改修、石燈籠20基新設、社号標(高さ5m、重さ9t)等が奉納された。又、境内地には、樹齢500年を超える御神木等が素晴らしい音更の杜を形成している。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
 開進神社   天照大御神 昭和38年合祀
 北昭和神社  天照大御神 昭和40年合祀
 音幌馬暦神社 天照大御神 昭和48年合祀
 福平神社   天照大御神 昭和54年合祀

 教育委員会設置の社頭掲示には次の様に記されてゐる。
河東郡総鎮守の杜「音更神社」

 開拓者にとって、心のよりどころは神・仏への信仰でした。
 音更神社は明治三十三年(1900)、仁禮(音幌)農場内に祠を設け「天照皇大神」を祀り創祀元年とし「音幌神社」と称え、明治三十四年(1901)十月、「音更ほか二村戸長役場」の設置によって「音更神社」と改称し、今日に至っています。
 杜の面積約5ha、樹齢五百年を超えるご神木など、北海道環境緑地保護地区となり、平成二年(1990)音更町の名木・美林に指定されました。
 また、劇作家、久保栄が昭和十二年(1937)に発表し、翌年に上演した戯曲「火山灰地」第二部第六幕の神社の秋まつりの素材地になっています。
音更町教育委員会
平成二十四年十月
雑記  最寄の鉄道駅は帯広駅で南へ8.3kmの距離にある。国鉄士幌線音更駅が大正14年に開業し当社から北北東へ0.7kmの所にあったが、昭和62年3月に士幌線廃線に伴ひ廃止された。

 由緒にある「音幌農場」「仁禮(音幌)農場」は、webサイト「十勝の活性化を考える会」(2)によると、
 音幌農場は、鹿児島県出身の海軍大将の仁礼景範が、明治30年9月に国から無償で貸付を受けて翌年から事業を行ったところで、はじめは「仁礼農場」といった。
 その後、仁礼景範の長女の婿である斉藤実(まこと)に代わってからは、その名称を音更の「音」と下士幌の「幌」を取って、「音幌農場」に変わっている。斉藤実は岩手県水沢藩の出身で、首相を辞めたあとに音幌農場管理事務所兼屋敷に住むことにしていた。
 しかし、原敬首相から再三にわたって朝鮮総督を要請されたことからこの屋敷には一度も住むことがなく、昭和11年に起こった二・二六事件で殺された時には、首相ではなく右大臣をしていた。
 音幌農場は、南北で音更1号から9号まであり(高速道路のあるところから帯広リバーサイドホテルまでの約5キロ)、東西では音更基線1号から東4号までの範囲であった。
と云ふ。

 社殿に向って左手に資料館(宝物館?)があり、ガラス越しに拝見できる。例へば
 (1)旧社学 昭和八年九月十六日の村社昇格当日のもの。大野富三郎氏奉納。細かな装飾が施されてゐる。
 (2)大御輿奉納時の記念写真。昭和十年。
 (3)旧御社殿の蛙股(獅子と牡丹の彫刻)
 (4)昭和三年新築の拝殿の桁(海老虹梁?)葡萄に栗鼠の彫刻がある。
 (5)棟札 昭和三年の拝殿新築工事のもの
 (6)記念写真 皇紀二千六百年記念し武運長久を願ったもの
 (7)パイナップルの麻 一筋(束)・写真・説明書(昭和十六年二月十五日) 現地視察の記念として奉納、繊維はパラオ嶋でパイナップルの葉か造ったもの


 5月30日(日)から6月2日(水)の三泊四日で道東の45の神社を巡ってきた。武漢発の肺炎禍が世間の関心の多くを占めてゐたころで、私自身はワクチン未接種のため人との接触ははばかられる状況だった。
 神社でも人に会ふことは少なく、御朱印の授与は中止の所もあった。宿泊地の図書館で調べ物をしようにも、休館中だったり、月曜休館に当ったり思ふに任せなかった。秋口に、再度渡道したいと考へてゐたが、感染者急増(第5波)で断念してゐたので調べ物もできなかった。
 肺炎禍で良かったことは、交通量が少なく走行しやすかった事ぐらいか。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

鳥居の先の方には階段が見える。

写真3・4・5は階段の上。

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

灯籠は創祀百十年記念として平成二十一年葉月奉納。

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

元の御本殿。説明が掲示されてゐた。次の様。
古殿舎 (こでんしゃ)

 この古殿舎は、明治三十三年御造営された御本殿であり、翌三十四年に上境内に遷座。爾来平成十一年に迎えた御創祀百年記念事業として氏子崇敬者各位の御奉賛を賜り竣工した現在の御社殿の御造営により、役目を終えられました。
大神様の御住宅として百年の長きにわたり河東郡を見守りお導き戴いた御本殿であります。
今日音更町に、開拓往時を偲ぶ建物が現存するのは、この古殿舎と「音和の森」にある歴史資料館「明治の家」しかなくして、後世に父祖の御功績を伝え残さんが為、此処に境内西側の御神域(原生林域)に今より七十年程前に植樹された「とど松」を間伐し、その用材を以て覆舎を新築いたしました。
  一、地鎮祭 平成十七年五月 十 日
  一、竣工祭 平成十七年九月二十日


写真7
写真7 拡大 (1280×960)

境内社

向って右側:姫宮神社 宮城県鎮座の姫宮稲荷神社の御分霊(3)
 〃 左 :辯財天宮

写真8
写真8 拡大 (1280×960)

階段の登り口の、社殿に向って右手にある。

池は平成の御大典記念として以前あった三分の一の大きさで復元された(3)

写真9
写真9 拡大 (1280×960)

忠魂碑。
 日清日露の戦役において国難に殉じ 異国の地に骨を埋めた本町出身戦没者の霊を慰めるため大正五年町内有志の寄付金をもつてこの地に忠魂碑が建立された 爾来大東亜戦争に至る幾多の戦役を含め三百七十二柱の英霊が合祀されている 忠魂碑は建立後約六十年を経過し老朽化甚しいため町民の総意と浄財により慰霊碑として再建した
 英霊の守護により郷土音更の反映を誓い永く戦没者諸士の冥福を祈念してやまない
   昭和四十九年六月二十日 建立
「忠魂碑」とあるはめ込みはかつての忠魂碑の該当部分を移したもの。「鎮魂」の書は北海道知事堂垣内尚弘(4)
その下の陽鋳と思はれる金属部分には、階級と氏名が記されてゐる。凡そ370名。


写真10
写真10 拡大 (960×1280)

交通安全祈願碑、鳥居に向って左手にある。

台の部分には「みんなの願い交通安全 一人ひとりが 交通ルールをまもり 明るい街を 築きましょう」と、碑の背面には「昭和五十五年十二月 音更町交通安全協会 協賛 町民一同 建立」とある。
 建碑から四十年を経てゐるが綺麗に維持されてゐる。交通安全に寄与できただらうか。

御朱印
御朱印 拡大 (960×686)


出典・脚注
  1. 令和3年12月6日閲覧 北海道神社庁 北海道の神社 音更神社
  2. 令和3年12月7日閲覧 十勝の活性化を考える会 音幌農場 2019-04-05
  3. 令和3年12月6日閲覧 当社HP内 音更神社御由緒
  4. 堂垣内尚弘 堂垣内知事は、町村金五のあと、昭和46年4月から昭和58年4月の三期務めた。大正3年生れ、札幌出身、北海道帝国大学卒、平成16年没89歳。ウィキペディア堂垣内尚弘参照 私事だが、父の受けた賞状に、堂垣内知事名のものがあり、馴染んだ名だった。

改訂記録
  • 令和06.02.21 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。

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