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中士幌神社 (北海道〈十勝〉音更町)

参拝日 令和3年5月30日(日)
作成日 令和3年12月11日(土)
改訂日 令和6年2月21日(水)
よみ  なかしほろ じんじゃ  
所在地 〈十勝管内〉音更町字豊田東七線25-1
  (43度5分21.50秒 143度17分26.36秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.6km×南北 1.3km の範囲の地図です
・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 中士幌神社
祭神  天照大御神(あまてらすおおみかみ)
由緒  社頭の鳥居に向って左に由緒碑が設置されてゐる。碑文は次の様。
中士幌神社
祭神
一、天照皇太神宮
境内社
一、地神宮
一、忠魂碑
例祭
一、元旦祭   一月四日
一、春期例祭  四月十五日
一、秋季例祭  九月十四日
一、新嘗祭   十一月二十四日
由緒
一、大正五年八月二十四日伊勢天照皇太神宮神楽殿より御神体を拝受奉安し、地域の繁栄と住民の無事息災を祈願する。
一、大正六年九月 神社用地として、五反歩 山角信次氏より奉納される。
一、昭和二十三年 神社本庁承認 無格社として格式許可される
一、昭和二十九年 宗教法人格を付与される
(碑背の記述)
大正五年、此の地に御社殿を御造営地域の守護神として、御神体を安置しここに八十周年を迎へ 併せて
牧野家 明治三十年富山県より渡道、池田町青山に入植、明治四十三年現在地に移住、以来百年の節目を迎へ、亦、神の御加護により私達の金婚式と永年の農事功績が認められ、北海道産業貢献賞の受賞を記念し
ここに、この碑を奉納する。
 平成八年十一月
   奉納者 牧野茂治
         愛子

 北海道神社庁web頁にはつぎの様に載ってゐる(1)
由来
大正5年8月本殿を造営し伊勢の神宮神楽殿より神璽を拝授奉安し、地域住民の繁栄と無事息災を祈願したのが創祀である。大正6年神社用地5反歩を山角信次氏より寄贈され、境内社として地神宮を祀り境内に落葉松を植林する。昭和15年拝殿を新築し鳥居を建て替え狛犬・石灯籠を設置した。昭和17年馬頭観音堂を境内に設けた。昭和29年宗教法人となり、同30年社号標が奉納された。昭和44年忠魂碑を改修、同51年には鳥居も鉄製に改築された。昭和55年には拝殿の内外大改修が行われたが、昭和61年社殿を現在地に移転することとなり、新築された。平成2年開拓記念碑を神社横に建設し、併せて石灯籠1対が寄贈された。平成4年石灯籠1対が中井氏より寄贈、平成8年御神体拝授80年を記念して牧野氏より由緒書を寄贈され、境内の景観も一層整えられている。
雑記  最寄駅は根室本線帯広駅で南南西(210°)へ20kmの所にある。音更町役場は南西(215°)へ13kmの所にある。
 士幌線のあった大正14年から昭和62年までは、中士幌駅が西(280°)へ5.5kmのところにあった。

 当社の南側に「平田助市翁顕彰」碑・「故脇原清輔翁聖徳」碑(ともに写真9参照)と「開拓之碑」(写真10参照)がある。
一、「平田助市翁顕彰」碑碑文には、明治十七年岐阜県に生れ、同三十一年中士幌武儀に入地、後柏葉に移住し農耕の傍ら森林の育成にも傾注、大正五年以降村会議員として、後道議会議員として十有余年、この間重要公職を歴任、特に農林行政開発等に寄与した功績は大。徳を称え敬慕する者により顕彰碑を建立し後世に伝える、昭和三十三年十一月。碑背には碑の建立に当った二十七人の氏名が記されてゐる。その中には脇原清輔の名もある。
一、「故脇原清輔翁聖徳」碑には300字程の碑文があり、それによると、脇原清輔氏は、明治二十五年岐阜県に生れ、同四十一年渡道し農業に従事。音更村会議員を三十余年、この間音更町議会議長、十勝町村議会議長等を務め、いくつもの農業団体の要職にあって産業開発に努め昭和四十一年に没した。叙勲の他、音更町は名誉町民の称号を贈った、旨刻まれてゐる。
 背面には、全町有志、地域住民の協賛を得て翁縁の当地に建立した旨記されてゐる。昭和四十一年十一月吉日付け。


 本日の神社巡りは、当社で終了。最後の写真は18:42の撮影。夏至が近い北海道ではこのくらいが日没時刻なはずでもう少し明るいみこみだったが、雨雲が全天を覆ってゐてカメラのシャッター速度が遅くなってゐた。
 帯広駅前のホテルに着いたのは20時に近かった。一時は強い雨の初めての夜道、運転には緊張した。それでも、ほぼ、予定通りだった。
 図書館が開いてゐれば、早めに切上げて由緒を調べたりしたかったが、コロナ禍で休館してゐて叶はなかった。
 明朝は6:15チェックアウト予定。


写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

向って左に由緒碑、(写真に写ってゐないが、写真9、10の碑がある)

社号標は「中士幌神社 大野伴睦(2)謹書」、側面に「無格社許可昭和二十二年三月一日」、背面に「昭和三十年三月十五日金婚記念建之 平田助市」とある。台石にも献木や植樹の記録がある。

向って右には「交通安全祈願碑」がある

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

参道、写真の左端に忠魂碑が写ってゐる(写真8参照)。

灯籠は、「紀元二千六百年記念 帝国在郷軍人會 音更村分会第?班」と刻まれてゐる。

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

参道

狛犬は、昭和十五年九月寄進。この狛犬・写真2の灯籠、写真1の社号標の石材は札幌軟石。

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

社殿

灯籠は平成4年に奉納

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

社殿側面

写真の右端(社殿から見ると左前方)に「地神宮」がある。

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

拝殿内

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

社殿前から鳥居方を望む

写真8
写真8 拡大 (1280×960)

忠魂碑

15の氏名と「昭和四十四年九月建之 氏子中」とある

写真9
写真9 拡大 (1280×960)

向って左に「平田助市翁顕彰」碑、右に「故脇原清輔翁聖徳」碑。

(碑の趣旨は雑記欄参照)

写真10
写真10 拡大 (1280×960)

開拓之碑、奥に写真9の「故脇原清輔翁聖徳」碑・「平田助市翁顕彰」碑がある(写ってゐる)。
碑文は次の様。
碑文
 東北 北陸の各県 更に遠く岐阜 香川から北の大地 音更町の士幌川沿に 新天地を求めて入植した先人達は 太古未開の原野に開拓の鋤をふるい 明治三十三年からこの地を 永住の地とした 巨木を倒し冷湿害に難渋しながら田畑を拡げ学舎を開設して 交通を便利ならしめ 今日の基礎を築いた苦労は想像に 余りある 豊かな大地に変貌したこの地開拓の歴史はくしくも開基九十年を迎えた音更町とおなじくし又皇紀二千六百五十年国では大嘗祭の行はれるこの年に私達は開拓の碑を建立し先人達の苦労と偉業を偲び且つこの平和と繁栄を後世に伝えることを誓う
 平成二年九月吉日
(碑背)
平成二年九月建之

寄付者芳名 (40名の氏名に加え、篤志寄附者として音更町役場・音更町農業協同組合・帯広市山角太助ほか、江別市・帯広市・糠平の方の名がある)



出典・脚注
  1. 北海道神社庁 北海道の神社 中士幌神社
  2. 大野伴睦  政治家。明治23年岐阜県生れ、昭和39年没。北海道開発庁長官、衆議院議長等を務めた。中川一郎の政界での師匠。

改訂記録
  • 令和06.02.21 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。

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