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浦幌神社 (北海道〈十勝〉浦幌町東山町)

参拝日 令和3年6月2日(水)
作成日 令和3年3月19日(土)
追記日 令和6年2月17日(土)
よみ  うらほろ じんじゃ  
所在地 〈十勝管内〉浦幌町東山町18-1
 (42度48分32.90秒 143度39分46.33秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 浦幌神社
・当社web 浦幌神社・乳神神社
・YouTube ホーム北海道 浦幌 神社 乳神 神社のご紹介
・twitter 浦幌神社・乳神神社宮司背古宗敬
祭神  天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) (1)
由緒  無格社
 境内の掲示には次の様に記されてゐる。
浦幌神社

御祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
    八幡大神 (やはたのおおかみ)
例祭日 九月二十日
鎮座地 北海道十勝郡浦幌町字東山町十八番地の一
御由緒 
   明治二十七、八年頃、土田謙吉氏、坂東勘五郎氏等の農場経営により拓地開墾が進む中、次第に集落が形勢されてゆき、両人の唱導によって、移住者の土着の決意も進み、住民の心のより処とする神社の建立の声が高まった。
 明治二十九年八月十五日、伊勢の神宮より天照皇大神宮の神璽を受けて、坂東農場(現浦幌町総合スポーツセンター付近)に祠を建立、天照皇大神を奉祀したのが浦幌神社の創始である。
 明治後期には、浦幌町東山一線(現浦幌町総合スポーツセンター付近)に遷座、大正十二年十月には、街を一望できる東山のふもと(現樹霊塔付近)に総桂造りの本殿を御造営、翌年には拝殿が完成した。以後、町内の帯富神社・千歳神社・時和神社で祀られていた八幡大神を合祀する。
 昭和四十八年、新たに社殿を御造営し、本殿を現在地に移築、十二月に遷座祭を斎行する。翌四十九年には、すべての御造営事業が完了し、六月に落成奉祝祭を斎行する。
 平成八年、御創祀百周年を迎え、記念事業奉賛会を設立、社殿を大改修し、八月に遷座祭並びに創始百年大祭を斎行、現在に至る。
平成二十六年十一月吉日

 北海道神社庁webには次の様に載ってゐる(1)
由来 明治37年日露戦役当時、五位団体住民が相談し、開拓の安全と戦勝を祈願するため、郷里の富山県西砺波郡西五位村の村社「五位神社」の分霊を糠内の地に奉祀し五位神社分社とした。社殿の造営は吉田平一郎以下33名が材料を持ち寄り労力を奉仕して仮社殿を建築し、遷座祭を執行した。明治42年地区の総会で五位団体のみの神社ではなく、地域の総鎮守とすることになり、「糠内神社」と改称した。また西糠内・中糠内の開発進展から戸数も増加し、神社を地域中央の現在地に移すことになり、氏子一同が奉仕して鳥居・社殿を建築した。明治41年には59戸だった氏子も大正初年に100戸を越え、社殿の狭隘にともない大正4年大正天皇即位を記念して社殿を造営した。昭和16年紀元2600年を記念し神社昇格申請を提出、翌17年12月無格社として公認された。昭和22年宗教法人となった。

(境内社 乳神神社由緒)
乳神神社略記

御祭神 乳授姫大神(ちちさずけひめのおおかみ)
 乳神様は大正の中頃南幌町瀬多来の山奥の新之助沢に楠の大木がありその幹の上部に女姓の乳房にそっくりな瘤が二つ並んで着て居るのを見つけた吉田(名は不詳)と云う老婆が「この木は女神の神木にちがいない」と信仰されたのが始りと云う。
 以後乳神様の信仰により部落の女性はもとより近隣の町村遠くは九州方面の女性の信仰があり、母乳を授けられ又婦人病・家族の健康祈願又は眼の病等々等々数多くの御利益があり、その感謝の意を以て当時瀬多来に在住の菅原鶴次郎・井川建治・岸田大助・佐藤徳太郎・斉藤弁治奈良清一の六名が発起人となり社殿を造営して大々的に祭典を催すよになり草相撲などで賑いましたが御神木が老木のため倒れてその瘤を御神体として瀬多来の氏子により奉斎されて来ましたがより多くの人々に信仰される事を目的として浦幌町内の婦人十五名の発起により御造営奉賛会が発会し町内外の多くの婦人達の浄財により此度幌神社境内社として御遷座したのであります。
昭和五十七年九月十二日

 もう一枚の掲示。日付は判らなかったが、つい最近設置と思はれる新しさ。
乳神様の信仰について
 乳神様は大正の中頃、浦幌町瀬多来山中にあったおっぱいに似たコブを持つナラの大木をお祀りしたのがはじまりです。 (現在の日立建機(株)浦幌試験場内)
 当初は、母乳授け、病気平癒の信仰が広まり、多くの人がその御神徳にあやかりました。その後、幹の根元に大きな穴ができ 倒木しましたが、幸いにもコブが残り、祠を設けて瀬多来神社の隣にお祀り致しました。すると不思議な事に倒れた御神木の辺りから新しいナラの芽が吹き出しました。地元の方々は、乳神様のお子様(二代様)と喜び信仰し、現在は、日立建機(株)様に 竹垣で囲って厳重にお祀りして頂いております。残ったご神体のコブは昭和五十七年に浦幌神社の境内に社殿を設けて乳神神社としてお祀りしております。乳神様の生命力にあやかろうと、子宝・安産・縁結びの信仰も全国各地へと広まっております。
雑記  最寄駅は根室本線浦幌駅で西(278°)へ0.9kmのところにある。駅は明治36年開業。

 境内掲示の御由緒にある、合祀された三社(帯富神社・千歳神社・時和神社)の旧地は、地名を社名にしてゐるとすると、帯富は当社から北へ2〜4km辺りの地、千歳は当社から西へ1.4kmほどの処の千才だらうか、時和は帯富から北北西へ2〜3km程のところ。

石像物等は、写真に掲げたものの他に、つぎのものがあった。
・「鳥獣魂碑」、浦幌町長本間道男書、(碑背には横書で)昭和54年10月14日 北海道猟友会浦幌部会
・胸像「朝日浅吉翁之像」 、浦幌町名誉町民で、明治十五年福井縣で出生、明治三十年渡道字活平に居を定め、福井県や広島県からの入地を図り百八十余町歩を開墾、明治四十三年に村議会議員として村勢に参画、数多くの公職を歴任、昭和三十二年高齢のため公職を退き、本町の行政・産業経済の発展・教育文化の興隆並に福祉の増進に尽された。毎年、7月20日の命日前に親族が集い慰霊祭を斎行してゐて、令和二年には55回目の慰霊祭だったと云ふ。碑の書は、北海道知事 町村金五。
・境内社 水子神社  本社に向って右方にある。
・乳石 二瘤の石。浦幌町厚内箱石沢産、昭和五十七年町内在住者による奉納。
・バイク交通安全祈願 名刺奉納所

 かつて馬車鉄道があったので調べたら、炭鉱があったことを知った。
 浦幌炭鉱が浦幌駅から北北東(27°)へ16kmの所にあった。浦幌駅から浦幌炭鉱ケナシ坑へ大正7年に馬車鉄道約17kmが敷設され、大正11年に炭鉱休止により廃止された。昭和17年に雄別炭鉱の尺別までの尺浦隧道が完成し、送炭した。この間、採炭の休止・再開を繰返し、戦後は昭和23年に採炭を再開した。昭和25年には730戸の炭住があり小中学校、高校分校も建設されてゐた。昭和29年に閉山した。(2)
 昭和19年の航空写真を見ると整然と並んだ建物多数が見えるが、今は何も建物は無い。森林になってゐる。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

参道左側に「頌徳碑」がある。碑背に碑文が刻まれてゐる。撮影したが、文字の過半は読取れずどなたを顕彰してゐるのかも判らなかった。

社号標は「浦幌神社 宮司 背古昌敬 謹書」「奉納 昭和五十五年五月吉日 北村慶藏」と刻まれてゐる。

灯籠は、「昭和七年五月三十一日建立」「浦幌主婦會」と刻まれてゐる。 

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

社殿正面

本社に向って右手には、近い方から乳神神社、水子神社がある

左手には、近い方から、五神名地神塔、(以下は写真3の範囲外)上厚内神社社号標、伏見稲荷神社、樹霊塔がある

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

斜め前からみた社殿

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

御本殿

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

拝殿内

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

境内社 乳神神社

本社に向って右手にある
乳神神社の御本殿は、常室(とこむろ)の炭山の神社の本殿を移築したもの(3)。(浦幌炭鉱にあったのかと思ふが、炭鉱は昭和29年に閉山してゐる)

写真8
写真8 拡大 (1280×960)

境内社 伏見稲荷神社

戴いた栞によると、
大正10年に浦幌町宝町でおまつりされ、商店、飲食店、芸者さん等に信仰される。昭和13年に浦幌神社の境内に遷座して現在に至る。
 (宝町は、当時の五区)

写真8
写真9 拡大 (1280×960)

本社に向って左手にある。

写真は向って左:社号標だったものだらうか
表:「上厚内神社」
背面:「奉納 昭和三年十一月七日 米澤喜義」、基部にはめ込みで「平成二十七年十一月二日 浦幌神社へ合祀 奉納 移設工事 米澤輝和」
上厚内は、当社から東北東へ7km辺りの地、旧地(地理院地図)は神社記号があり、Googleマップには上厚内神社跡として表示され写真3枚も載ってゐる。上厚内駅があったが平成29年に廃止され信号場となってゐる。

右と中央は、五神名地神塔(社日碑)
は、右廻に、天照皇大神・稲倉魂命・(未確認)・少彦名命・埴山姫命。明治四十年頃千歳に建立
は、右廻に、天照皇太神・大巳貴命・(未確認)・埴安姫命・稲倉魂命。大正十年頃 帯富に建立
千歳は当社から西へ1.4kmほどの処の現千才だらうか。帯富は当社から北へ2〜4k辺りの地。

写真8
写真10 拡大 (1280×960)

忠魂碑

「陸軍中将國司伍七謹書」とある。
 國司伍七(くにし ごしち)は、大正12年から15年まで第7師団(北鎮部隊)長だった。

写真8
写真11 拡大 (1280×960)

樹霊塔

本社社殿から、上厚内神社社号標、伏見稲荷神社

写真8
御朱印(本社) 拡大 (1280×960)

写真8
御朱印(乳神神社) 拡大 (1280×960)


出典・脚注
  1. 令和4年2月20日閲覧 北海道神社庁 北海道の神社 浦幌神社
  2. 令和4年2月20日閲覧 一般社団法人 北海道産炭地域振興センターwebの 浦幌町産炭史 (HPには 令和3年8月末で閉鎖します とある)
  3. YouTubeチャンネル「心が豊になる神道の教え」 浦幌神社・乳神神社【公式】 北海道 浦幌 神社 乳神 神社のご紹介 2020-10-19

改訂記録
  • 令和06.02.17 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。

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