よみ
| みやぎのはちまんじんじゃ
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参拝日
| 平成26年10月1日(水)
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所在地
| 仙台市宮城野区銀杏町(いちょうまち)7-37 (北緯38度15分46.80秒 東経140度54分25.39秒)
地図:地理院地図
いつもNAVI
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HP
| 宮城県神社庁 神社詳細 宮城野八幡神社
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祭神
| 主祭神 応神天皇
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由緒
| 境内の掲示には次のやうにあった。
宮城野八幡神社
鎮座地 宮城野区銀杏町七−三十七
祭神 応神天皇 配祀神 武甕槌神
由緒
桓武天皇の延暦十七年(798年 平安)坂上田村麿 男山八幡神の分霊として 社殿を造営す
往古生巣八幡宮と称した
後醍醐天皇の御年元弘二年(1332年 鎌倉)陸奥守北畠顕家多賀城に在る際 社殿を修造し弓矢並びに太刀を献じ武運を祈る故に北畠八幡宮の称あり
康平五年(1062年 平安)源義家 武甕槌神を祀って戦勝を祈るという
文禄年間(1592−1595 安土桃山)国分盛重この地に築城するに及び鎮守神として尊崇す 後仙台藩主歴代伊達氏の種々奉献すること篤く
これを崇め宮城野八幡宮と呼んだ
明治五年村社に列せられ 同四十年三月幣帛供進社に指定を受けた
昭和二十年戦災に遭い 又 日本国有鉄道(現JR東日本鉄道)の貨物駅用地と成るに樹木生繁る宮城野の森より昭和二十七年現在地を買収し
社殿を新造営遷し今日に至る
平成二十四年 秋 十六日
社殿
本殿 流造 1.5坪
拝殿 入母屋造 12 坪
弊殿 (石の間) 2 坪
境内地 449.81坪
氏子区域 原町・銀杏町等旧宮城野原地域(苦竹地域を含む)
歴代神職 佐藤 金助、 久光 右一、 郡山 宗英(愛宕神社名誉宮司)
宮司郡山宗典施す
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また、石碑があり次のやうに刻まれてゐた。
宮城野八幡神社は畏くも應神天皇を祭神とし奉祀せる御社にて桓武天皇延暦十
七年坂上田村磨将軍奥州鎮撫のため勧請せし天喜四年源頼家卿父頼義卿と共に安
倍の頼時貞任討伐の際武甕槌神を合祀して戦勝を祈願す後醍醐帝元弘二年陸奥守
北畠顕家卿之を修造弓矢並に太刀一振を献じ武運を祈る其後永禄年間国分盛氏鎮
守の神として特に崇敬し伊達氏此地の領主となるや歴代の藩主祭祀を厳修當地の
天神として大衆尊信の誠を致せ 明治五年村社となる昭和二十年七月十日大東亜
戦争の厄に遭い堂宇惜しくも焼失し崇敬者痛く傷心すたまたま日本国有鉄道宮城
野原貨物駅新設の計画なるや境内地はその敷地として買収されたるを以て樹齢千
三百年と傅えたるる名木乳銀杏の隣地宮城野々守遺跡永野邸四百七拾九坪八合壹
勺を縁 深き適地として昭和二十六年譲渡を受け同二十七年九月社殿竣工十月三
日遷座す同二十八年九月社務所を建造し神社の体容を整ふ此の間諸方面に種々の
難問題起りしも宮司久光右一氏子総代加藤芳之助根元文七諸氏等を初め総代世話
人の献身的接渉と奉仕とにより神社は永遠に鎮座せりこれ偏に神明の加護と関係
者一同の真心との感應道交に依るものにして永くその功績を傅ふべきなり
ここに神社の遷宮に當 その由来 誌し以て後世に遺さん
昭和二十九年九月十三日 清 野 学 道 撰
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碑の漢字は正字・新字体が混在してゐる。転記に際し、正字(旧漢字体)の一部は新字体を使った。
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雑記
| 仙台駅から東ないし東北東へ2.1kmのところにある。仙石線宮城野原駅からは北北東へ300m。
いちょうは神社にあるものと思って訪れたが、私有地なので入るな、といふ趣旨の表示があり、近づけなかった。
仙台市webには、「苦竹のイチョウは、仙台藩より野守役を命ぜられた永野家の屋敷内にあります。
聖武天皇の乳母の遺言で植えられたとの伝説もあり、隣りの八幡神社のケヤキとともに地域のシンボルとして人々に親しまれています。」
「町名は元は苦竹。樹高:約32m、幹周7.8m、推定樹齢1200年」とある。
貨物駅は昭和33年に着工し、36年に開業してゐる。
仙台駅ではなく長町駅停車の寝台列車に乗ってゐたことがあり、当時は意識してゐなかったが、その列車は宮城野貨物線経由であった。
新幹線仙台駅工事のためだったが、かつて神社を立ち退きさせて造った所を通ってゐたとはつゆも知らずにゐた。
(貨物駅は広い。現在16.8haあるから通過線上にあったとは限らない)
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