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栗川稲荷神社(山形県上山市)

作成日 平成29年3月9日
よみ  くりかわいなりじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成28年6月25日(土)
所在地  上山市松山1-1-52 (北緯38度9分20.93秒 東経140度16分19.46秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  
祭神  稲倉魂命(うかのみたまのみこと)
由緒  南門の掲示(平成十七年奉納)には次のようにある。

栗川稲荷神社の由来について

 栗川稲荷神社は、備中国庭瀬の城主松平信通公が城中守護の神として奉祀され、厚く信仰されてきたお社であります。
 ところが、元禄十年九月十五日信通公は出羽国上山に御国替を命ぜられました。その時古くから信仰されていた稲荷大神の御神体を捧持して上山に下向することとなり、行列は利根川の右岸、武蔵国北葛飾郡栗橋にかかり本陣に泊ることとなった。一行が寝静まった夜中、白髪の老翁が信通公の夢枕にあらわれ、
 「吾は汝ノ家ニ祭ラレシ稲荷神ナリ、此ノ利根川ヲ必ズ夜明ケ前ニ渡ラザレバ悔ユルコトアルベシ」
と告げると共に夢より醒めた。信仰の篤い信通公は、直ちに家臣を起して、急に予定を替えて、夜の明けぬうちに行列を整い、利根川を渡った。
ところが間もなく、沛然たる豪雨となり、忽ちにして利根川の河水は氾濫し堤を崩し、大惨事となった。然し信通公の一行は稲荷大神の御告げによって、この大難をさけることが出来、新領地上山に無事着任することが出来た。当時期日通りに着任する事が出来ないと大変な咎めを受けた時代であったのである。
 このあらたかな御霊験に感銘した信通公は、上山城内に社殿を作り、栗橋の栗と、利根川の川をとって、栗川稲荷大明神とあがめ、いよいよ固い信仰を捧げたのである。
 ところが、明治になって、松平家は東京に移り、城内の稲荷神社は顧みる者もなく大変荒廃したのを嘆き、十日町の清水屋中村利藏翁が松平家に願出で、松山台のこの地に社殿を設け、御神体をお移しして奉祀することにしたのである。
 その後年を重ねる毎に稲荷大神の御神徳を蒙る人々が益々多く、今では県内はもちろん、東北や東京・北海道更には、海外からの参拝者を迎える様になった。
 稲荷大神はあらゆるものを生み成し、生活の安寧と幸福を与え給う御神徳から、古来この大神を衣食住の大祖神(おおおやがみ)と尊崇して来ました。又万民豊楽の神霊と仰ぎ、これが信仰を語り伝える奇瑞や御霊験は、古今にわたって光彩を放っております。
栗川稲荷神社 社務所

 境内には、ほぼ同じ文章の掲示が、「栗川稲荷神社御造営について」と題し「昭和54年四月二十三日 栗川稲荷神社 斎主 中村元三郎」の名がある。ただ、「参拝者を迎える様になった」のあとに次の一文が多い。中村元三郎氏は清水屋七代目。
 現社殿は明治七年の建立で、参拝者の増加に伴い、いよいよ狭隘となり、又腐朽も著しくなったので、今般本殿を境内のおく、中央に遷し、拝殿を改築、社務所を兼ねた参集殿を改修して東に移築、それに伴う参道のつけ替え等境域の整備をいたす計画であります。
雑記  奥羽本線(山形新幹線)かみのやま温泉駅から北西ないし西北西へ0.7kmの所にある。

 バスツアーで上山の温泉宿に宿泊。翌朝、参拝に赴いた。参道に着いたのは八時少し前。前日の雨で紫陽花が濡れてゐる。 境内には、開山堂、「沢庵堰の由来」の掲示、辨財池の説明掲示がある。一見したところでは堰の水や池は定かでは無かった。

 上山市は、人口31000人余(平成29年1月末現在)。平成7年(1995)の国勢調査では38000人ほどあったのでそこそこの減少だ。宿泊当日近辺を歩いた。駅の近くに、平成8年(1996)開業の「カミン」があった。図書館の他、商業施設があったやうだがスーパーは閉店、総菜やさんが本日で閉店といった状況。所有・運営してゐた協同組合が5月に自己破産してゐたといふ。地方都市には有りがちな状況なのだと暗い気持になった。(駅から須川を越えた国道13号線へ通じる辺りに、平成24年(2012)ころから幾つもの大型商業施設が出来てゐるやうだ。)
 かみのやま温泉駅は、平成4年(1994)7月の山形新幹線開業に伴ひ、上ノ山駅から改称されてゐる。


参道入口。社号標柱には、「大正十五年旧正月元日建之 崇敬者 長崎町 ○○○○ ○○○○」とある

参道途中(左手に灯籠)


拝殿内の扁額には「栗川神社」

稲荷社がいっぱい。明治稲荷・三島稲荷・弘栄稲荷・中村稲荷・等々(紙垂で文字が読めない稲荷も)。鳥居は中村稲荷社のためのもの。

南門。社号標柱は昭和五十五年建立。


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