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月岡神社(山形県上山市元城内)

作成日 平成29年3月9日
よみ  つきおかじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成28年6月25日(土)
所在地  上山市元城内3-23 (北緯38度9分29.04秒 東経140度16分32.97秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  当社HP
祭神  主祭神 松平利長公 松平信一公
由緒  向拝右上に次の掲示があった。

月岡神社 御祭神

藤井松平 利長公(としながこう)
     信一公(のぶかずこう)
 松平家は徳川家康につながる名門の家柄で藤井村(愛知県安城市)に住んでいたことから藤井松平といいます。

 御祭神 利長公は、藤井松平家の始祖であり二代目信一公は、家祖として武勇の誉れ高く群雄が割拠する戦国時代に家康と共に信長に仕え、「桶狭間の戦い」に参加その後も徳川援軍の将として「姉川の戦い」「長篠の戦い」「小牧長久手の戦い」など家康が関わった主要な合戦には常に加わり出陣し武功を挙げ勇将・猛将として天下に名をとどろかせ、松平家興隆の基礎を築かれた御方である。
また、向拝左上に次の掲示があった。


祭神 徳川勘解由左衛門尉利長
   従四位松平伊豆守信一公
祭神利長公ハ東照公五代ノ祖長親ノ季子ニシテ後チ松平氏ヲ胃(?)ス即チ松平家ノ祖先ナリ
祭神信一公ハ利長公ノ御子ニシテ幼名ヲ勘四郎とト称シ東照公ニ従ヒ大小戦役ノ功大ニ顕ハレ其驍名一時ニ鳴ル世ニ称シテ鬼勘四郎ト云ハレタリ即チ松平家興隆ノ祖ナリ
当社ハ明治維新ノ後旧藩士族及旧領内庶民ノ協力ニ依リ両公の英霊ヲ奉祀セントシ明治十年六月社殿ヲ創建シ同年十月許可ヲ得テ月岡神社ト称ス同十五年五月村社ニ列セラル同四十年八月左記祭神ヲ合祀シ同四十三年五月幣饌供進神社ニ指定セラル

合祀祭神
天照皇大御神 神明大神  大国主之命 金比羅大神
大己貴之命 日枝大神   訶具突知命 愛宕大神 秋葉大神
大山祇之命 新山大神   菅原道真公 天満大神
誉田別之命 八幡大神   豊聰耳之命 土御祖大神
稲倉魂之命 稲荷大神

 例祭   四月二十五日
 新年祭  三月二十一日
 新嘗祭  十一月二十三日
昭和十四年五月
月岡神社々務所

 当社HPの由緒沿革によると、
  • 備中庭瀬から転封となった際、本丸に東照宮を建立し利長公・信一公の神霊を合祀した
  • 明治四年の廃藩の際に祖霊二柱は湯町に鎮座する日枝神社に遷され
  • 明治十一年月岡神社建立し遷座した
  • 明治十五年村社に列せられ
  • 明治四十年八月鶴脛町内鎮座の九社を合祀
  • 明治四十三年神饌幣帛供進神社に指定され
  • 大正二年稲荷神社を合祀
といふ。
雑記  奥羽線かみのかま温泉駅から北北西へ0.6kmのところ、上山城の北にある。

 上山城について教育委員会による掲示が、次のやうにあった。
上山市指定文化財(昭和三十二年四月二十日指定)

上山城址

天文四年(1535)伊達氏の手から高楯城を奪還した武衛義忠が、ここ天神森に新たに築城して上山城(別名月岡城)と称したと伝えられる。戦国時代の上山は最上氏の被領下にあったと見られ、置賜地方を領する伊達氏や、下っては上杉氏との領界にある境目の城として防衛の最前線の基地となっていた。
 元和八年(1622)最上氏改易後は松平(能見(のみ))、土岐、金森、松平(藤井)各氏の居城となった。この内最も城郭・城下が整備されたのが土岐時代で、内外に二重の堀を巡らし本丸には居館、三階櫓、角櫓が聳え、その下段に二の丸北の丸を備え東には枡形を伴った大手門を構えたその壮麗な姿が堀の水面に映えたと言う。
 しかし元禄五年(1692)土岐氏の転封と同時に幕令により破却され、以後は入部した領主による部分的修復に止まり旧に復することなく幕末を迎えた。今の上山城は昭和五十七年二の丸に再建されたものである。
上山市教育委員会

 明治十九年九月の招魂碑がある。調べたところ、戊辰戦争で亡くなった上山藩士供養のために上山町によって建立されたもの[1]。これには明治三十七八年戦役の戦没者の名も刻まれてゐる。両脇に明治三十八年十一月建立の碑が立ってゐる。

 御朱印を頂く際、山形県神社庁頒行の家庭本暦があり、ぱらぱらとめくってみると、幾つもの神社の紹介されてゐる。伺ふと、県内神社との事。いただく事にした。あとでゆっくり見ると、当社や栗川稲荷神社も掲載されてゐる。諸祈願の作法や神葬祭、山形県勢もあり興味深い。








脚注
  1.  平成28年2月28日閲覧 書肆犀 上山の戊辰戦争関連史跡


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