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御霊神社(群馬県前橋市元総社町)

作成日 平成29年10月14日
よみ  ごれいじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成29年3月24日(金)
所在地  前橋市元総社町1901 (北緯36度23分25.20秒 東経139度1分59.09秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  
祭神  由緒欄参照
由緒  境内に次の掲示があった。
御霊神社と長尾氏由緒
一、御祭神、豊城入彦命五世の孫、田道(大蛇に化身して風呂沼に住んでいた傳説の人)外上野の国に殉ぜる霊神、長尾氏の祖村岡小五郎忠通と五男鎌倉権五郎景政
一、例祭日 十月初亥、現在は十月十九日
一、創立年月は不詳なり、社傳に依ると往古此の地に上野国々府あり 国府に仕える役人の子弟を教育する学校あり、其の傍に招魂社ありて上野国神名帳西群馬郡の内に従四位下学校院若御子明神と記載あるは彼の招魂社なりと傅えり。桓武帝第五の皇子葛原親王より八世の後胤を村岡小五郎忠通と云い、相州に住し鎮守府将軍鎌倉権守と稱す、五男を景政と云い、前九年、後三年の奥州の役には忠通副将格にて数々の戦功立てたり、忠通寛治三年七十余才にて陣中に病死す、景政忠通の軍を引卒して先登にたち戦う、其の後、鳥海と矢記ある矢、景政弓手の目にさゝる、景政其の矢をぬき取り、数日後其の矢にて鳥海を討取れり敵味方共に其の勇感賞せざる者なしと、奥州平定して朝廷は忠通に御霊の神号を賜る、一族相州長尾郷に一宇建立して御霊宮と稱し長尾一家の氏神とす、景政より、四世を定景と云う。治承四年頼朝兵を誉ぐ、定景平家方と頼朝を攻むれど後捕えられ三浦義澄に預けられ後許免されたり、承久元年一月二十七日源実朝右大臣拝賀の爲鶴ケ岡八幡宮参賀の帰り道石段にて頼家の子別当公暁に殺害されたり、北條氏、公暁討伐を三浦義村に命ず、義村は直に長尾定景に命ず、定景雑賀次郎等五人の力士を引卒して鶴ケ峯後面の峯にて公暁を討取れり、兼て北條氏は三浦氏も頼朝の遺臣なれば之を亡ぼさんと其の機会を伺い待てり、宝治元年三浦氏も其の計畧にはまり、三浦長尾両氏一族二百七十余人頼朝公霊廟法華堂前で自害せり、之を宝治の乱と云う。元弘三年北條氏滅び後醍醐天皇の建武中興の世となり、足利尊氏直義兄弟も天皇方なれば直義成良親王(四才)を 奉じて元弘三年関東十ケ国の行政司法権を委任され鎌倉え入った、上杉重能を直義の家宰とす、長尾景忠は建武四年(一三三七年)には上野守護代となり後越後守護代も兼務せり、後弟景恒が越後守護代となり越後長尾の祖となる、景忠の長子清景は白井城主となり四男忠房は父景忠と共に国府を城郭化して蒼海城と稱し惣社長尾九代二百十余年の基を築けり、直義は尊氏に毒殺され養子基氏の頃貞治二年頃関東も平穏に治れり、忠房鎌倉長尾郷より御霊宮を分霊して、若御子明神に合祠し現在の地に創立し惣社長尾の氏神とす、某郷土史研究家先生は、総社神社も長尾氏が旧地より現地に移転し、神社裏の貞和五年の奉塔も長尾一族が建立した物であろうと推定して居ります、永禄九年頃蒼海城も武田氏の攻畧する所となり御霊宮も蒼海城と共に跡形なく破壊され顕方の二男忠治、古市宿より江戸時代の始め今の地に移り御霊宮を再建修険者となって中将坊としようし数代の後長尾山東覚院と云い明治二十二年長尾将斉の時赤石中政氏の助力に依って元惣社村各町内の寄付によって再建となりぬ、又境内の千庚申は殿小路町阿弥陀寺町の世話人によつて万延元年庚申年に祭礼が出来る様万延元年以前三年から石屋に依頼して元総社村中、大友村、石倉村全戸から一体づつの庚申塔の寄付を仰ぎお祭は毎年の初庚申日
 以上再建に当り記録す。
          平成二年十月吉日記之
               長尾貞治記
 (漢字は、一部に正字を用いてゐる。また、誤字と思へてもそのまま転記した)
雑記  群馬県庁(元前橋城本丸の位置)から西へ2.4kmの所にある。

 玄松子さんの御霊神社をみると昼なお暗そうな杜がある。参道には庚申塔が並んでゐる。
 現状は、下の写真の通り。区画整理らしい。
 この惨状については「石仏散歩」(1)に詳しい。

 鳥居(平成十二年二月)や灯籠の奉納者名には長尾姓がある。遠くは神奈川県綾瀬市、横浜市の方が奉納されてゐる。

 なお、鎌倉の御霊神社(神奈川県鎌倉市坂ノ下)は鎌倉権五郎景政公一柱となったとしてゐる。

写真





脚注
  1.  平成29年10月13日閲覧 石仏散歩 121御霊神社(前橋市元総社町)千庚申の無惨-1−-2-


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