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宮鍋神社(群馬県前橋市元総社町)

作成日 平成29年10月14日
よみ  みやなべ じんじゃ 地理院地図
参拝日  平成29年3月24日(金)
所在地  前橋市元総社町2038-2 (北緯36度23分25.71秒 東経139度2分8.84秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  
祭神  経津主命 金山昆古神 金山昆賣神
由緒   境内の掲示には次のやうにある。
宮鍋神社由緒
一.御祭神 経津主命 金山昆古神 金山昆賣神
一.例祭日 三月 七月 十月の各二十一日
一.創立年月日 不詳
 人皇十代崇神天皇の第一皇子豊城入命が東国統治の命を奉じ、この地方に下降した際、宮之辺の地に経津主命を祭祀して武運長久を祈ったのが、総社神社の始りと伝えられております。
 その後、九十六代後醍醐天皇の時、元弘の乱で北条氏が滅び建武中興の世となりました。
 足利直義は戦功により関八州とそれに付属する伊豆、甲斐、越後の国の行政権を与えられ、天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入部しました。
 家臣「長尾佐衛門尉景忠」は上野越後守護代となり、四男忠房は上野国府の地を給りました。忠房は国府を城郭化して蒼海城と称し、宮之辺の地より総社神社を現在地に移したようです。神社裏の貞和五年(1349)の宝塔も長尾氏一族の建立したものであろうと群馬県人名大辞典に書かれています。長享二年(1488)九月二十八日、僧の万里集九が角淵(玉村)より白井へ向う途中国分寺跡あたりから見た展望を日記に「経一村馬上望拝上野之総社」(一村を隔てて馬上より上野総社を拝す)とあります。また、古総社(現宮鍋神社)の前を通過する折に「数株老樹斧牛を屠残」(数株の老樹に斧の傷跡を残す)とあり、これらの日記から察するに永禄九年(1566)頃、武田軍と長尾軍の合戦により焼失した総社神社は、宮之辺の地ではなく現在地であろうと思います。
 次に、宮鍋は宮之辺が変化したのではなく、総社神社移転の跡地の東傍らの屋敷(2041、2042番地)に鋳物を業とする人々が定住して、経津主命に鋳物師が崇敬する製鉄の神、金山昆古神、金山昆賣神を合祀して「宮鍋神社」と称したのであろうと思います。鍋という字は、他県の鋳物師の氏神には数多く使われている様です。前期二屋敷跡より多数の鋳物屑が発見されております。
 明治三十年十月に木造鳥居の建立記録が殿小路町にあり、大正八年四月十六日総社神社に合併されましたが、昭和六年十二月一日県の指示により、再び宮之辺の地に移転となりました。
当社は今なお「宮鍋様」と称して、殿小路町、粟島町の崇敬の社であります。
 以上の事項は、各種記録、史料、伝説、考古学者の研究資料等に基づき記載したものであります。

 埼玉県児玉郡金屋にある古文書に
  傅馬壱疋可出候総社之鋳物師
  被可除一里一銭也仍如件
    戌 虎印  三月八日 塀和伯耆奉之(戌三月は天正十四年丙戌)
          総社より小田原まで宿々中
                      平成五年 六月
境内に「上野國總社址」の碑がある。背面には、昭和五年十一月二十四日建之とあり、また次の文がある。
 碑陰記
我惣社舊址從經
年所殆將歸廢滅
篤志者惜之胥諮
畫復興且建碑而
欲令知遺址尚可
尊後人其克護焉
他に、建立に関はつた人達であらう、社司・社掌・各町氏子総代(24名)他の氏名が刻まれてゐる。
雑記  群馬県庁(前橋城本丸の位置)から西へ2.2kmのところにある。総社神社は南東0.3kmのところにある。
 小さな石祠が、覆殿や拝殿もなく鎮座してゐる。大木が歴史を感じさせる。上野国府正庁推定復元図(前橋市教育委員会 平成4年)や旧地名 殿小路(元総社町)の地図が設置されてゐる。地図には、前に訪れた御霊神社の千庚申、蒼海城跡、推定上野国府跡の表示がある。当社は「宮鍋様」とある。

写真




旧地名 殿小路(元総社町)の地図


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