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倉賀野神社(群馬県高崎市倉賀野町)

作成日 平成29年10月21日
よみ  くらがの じんじゃ 地理院地図
参拝日  平成29年3月24日(金)
所在地  高崎市倉賀野町1263 (北緯36度17分46.24秒 東経139度2分35.44秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  当社HP
祭神  大国魂大神
由緒  境内にいくつかの掲示があり、それぞれ次のやうに記されてゐる。
飯玉縁起 (いいだまえんぎ)
 光仁天皇(771〜780)の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。末子の八郎満胤(みつたね)は、芸能弓馬の道にすぐれ帝から目代(もくだい)の職をたまわるようになった。ところが兄たちは八郎を夜討にして、鳥喙(とりばみ)池の岩屋に押しこめた。三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷属(けんぞく)まで食い殺した。その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
 やがて、小幡権守(ごんのかみ)宗岡が贄番に当る年、十六才の娘梅津姫との分れを共々嘆き悲しんだ。都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、梅津姫と共に岩屋へ入った。頭を振り尾をたたく大蛇にむかい、一心に観世音菩薩を称名(しょうみょう)、琴を弾いた。これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、明神となって衆生を(しゅじょう)を利益せんと空に飛んだ。烏川の辺りへ移り、「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これをみた倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。これが「飯玉縁起」のあらすじである。
 この話は、十四世紀半ばに編さん(纂)された神仏習合を説く縁起物語集『神道集』、巻八所載「上野国那波八郎大明神事」によく似通っているので有名である。「飯玉縁起」一巻は、江戸初期の寛文十二年(1672)すでに存在していたとされる伝来の社宝であり、唱道文芸『神道集』の研究にとっても欠かせない貴重な資料である。
 そして、今でも拝殿正面の向拝に、宗光が琴を奏でる彫刻が、見られるのは興味深い。社殿の彫刻が、祀る神の伝承縁起を物語っているということ自体が、全く珍しいからである。─(彫師は北村喜代松・石川兼次郎)─
 なお、この「飯玉縁起」は『神道体系』(神社篇二十五)に収載されてゐる。
鳥喙池跡 (トリバミ ノ イケアト)
 第十代崇神天皇の御子、上毛野君(カミツケノキミ)の祖豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)が東国を治めるためこの地に来たり、亀石を御神体として祀られたのが倉賀野神社の起源である。
 社伝「飯玉縁起」には、鳥喙池岩屋における飯玉八郎と竜王による神仏習合の物語が説かれている。
 江戸末期、深さ八尺あり「宮原の一つ松」が枝葉東西十二間余に繁茂したが元治二年(1865年)枯木したという。
 「額うつまのしづくや初時雨」(倉賀野八景の一つ)
 このたび鳥居前参道改修工事完成にあたり過ぎし昔を偲び、縁の池跡に謎を秘める平亀石(ヒラカメイシ)をはじめ、古三石(コサンセキ)を配して石標をたて後世に永く伝えるものであります。
 平成元年六月吉日    倉賀野神社
倉賀野神社本殿
    上毛歴史建築研究所長 桑原稔氏
    ─時代に引き継ぐ─「上州の建造物」より
■むかしの倉賀野
 江戸時代における倉賀野は、中山道の宿場であったばかりでなく、利根川を使った江戸通い物資運搬船の遡航終点河岸でもあったため、大いににぎわった。利根川最上流の河岸であったことから、西上州をはじめ中山道・三国街道を通じて信越方面へ送る物資輸送の水陸運輸の結節点として、近くは安中藩や高崎藩の外港として、また遠くは松本藩・飯山藩など信州の大名や旗本など四十二家の回米河岸として、十軒の米宿を数えた。その扱い数量は享保九年(1724)当時、松本藩の一万俵を筆頭に、合計五万八千俵に及んだ。このように倉賀野は回米河岸としての性格の強い宿場で会ったが、同時に広大な後背陸地を抱えていたため、そこからの特産物の集荷地としてもにぎわった。
■神社の由来
 当神社は、その倉賀野宿のほぼ中ほどで、旧中山道の南側に鎮座する。縁起によれば、創建は崇神天皇四十八年、皇子豊城入彦命が東国経営に当たり、境内に斎場を設けて松の木を植えて亀形の石をまつったことから始るという。このような伝承から、当神社の創建は畿内有力者の東国進出と深い関係があったものと想像され、近くには大鶴巻古墳・浅間山古墳など、国の指定を受けるような大古墳が存在する。日本書紀によれば、豊城入彦命は、上野国の一大豪族上毛野君の祖として書かれており、畿内豪族が東国に進出する際に、祭祀の場所とした神聖な地であったとも想像される。
■建築と彫刻
 本殿の建築についてみると、形式は一間社流れ造りとし、屋根を銅板葺きにしている。神社に残されている造営の際の墨書記録によれば嘉永六年(1853)四月、境内の社木を伐採して工事が始まり、元治二年(1865)三月上棟式を挙行、慶応二年(1866)九月に遷宮式を行ったことが明らかである。
 当本殿の特徴は、腰組から軒回りに至るまで丸彫り彫刻を豊富にデザインし、神社本殿としての威厳と豪華さを演出している。その中で特に目を引くのは、南側妻部にデザインされた鷹と梟の丸彫り彫刻である。鷹は羽を広げて獲物のウサギを襲おうとする躍動感あふれる姿勢を演出し、梟は木の枝に止まって物思いにふけっている様子を掘出している。鷹は物事を迅速に処理する決断力と何事も恐れない力を象徴し、梟は聡明な判断力と知恵を象徴したものである。筆者はこれまで数多くの社寺建築を見てきたが、このような意味深い彫刻を拝見したのは初めてである。
■造営のこころ
 思えば当本殿の造営時期は、明治を迎える寸前にあたり、幕末動乱期の真っただか中であった。彫刻を眺めていると、そのような激動の中にあって、これだけの立派な本殿を完成させた宮司、高木出雲の信念と心意気が伝わってくる。本殿の最も目立つ南側妻部に彫刻された鷹と梟は、まさにこの大工事を成し遂げた宮司の心を象徴しているものであろう。なお明治八年には拝殿も上棟し、現在見られる社殿が整ったようである。

 社名は、江戸時代は飯玉(いいだま)大明神、明治十年に大国魂神社と改称、同43年に近隣の数社を合併して倉賀野神社と改称した。
雑記  倉賀野駅から南西へ0.7km、南東0.3kmには烏川が東へながれてゐる。

 彫刻の見事な社殿を写す際、カメラの解像度がもっと良ければ細部まで写るのに、と残念でならない。6月からはカメラを更新したので少しは良くなってゐるはず。
 滞在中、参拝者はゐなかつた。金曜日は休みのところが多いと聞いてゐたので御朱印を頂けるのだらうかと心配したが、無事いただけた。

写真



御本殿

境内社

鳥喙池跡



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