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玉村八幡宮(群馬県玉村町)

作成日 平成29年10月14日
よみ  たまむらはちまんぐう 地理院地図
参拝日  平成29年3月24日(金)
所在地  玉村町下新田1 (北緯36度18分18.21秒 東経139度6分31.93秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  当社HP
祭神  誉田別命
 気長足比売命
 比盗_
由緒  旧県社
    当社HPの「ご由緒」によると、
  • 建久6年(1195)に源頼朝が上野奉行安達藤九郎盛長をして鎌倉鶴岡八幡宮より御分霊を勧請して創建した八幡神社(町内角渕鎮座)が当宮の元宮
  • 慶長15年(1610)、角渕の八幡神社の本殿を移築し、現在地に奉斎
  • 寛延2年(1749)に崇敬厚かった酒井氏が播磨国姫路に移封されて以降は領主に よる修理は行われず
  • 以後は七郷十二ヶ村が協議の上「修理講」を興し、その講金に朱印地の収穫を合わせて祭儀の執行と社殿の修理にあてるようになった
  • 明治41年1月31日境内社稲荷神社ならびに近郷の神社8社を合祀
  • 昭和25年に本殿が国の重要文化財に指定
  • 昭和11年、平成11年に社殿の修理実施

 境内の碑には次のやうにある。
玉村八幡宮由緒略記

鎮座地   群馬県佐波郡玉村町下新田一番地 鎮座
祭神  誉田別命 ほんだわけのみこと (第十五代応神天皇)
    気長足比売命 おきながたらしひめのみこと (応神天皇の母、神功皇后)
    比盗_ ひめのみこと ほか十五柱を合祀
由緒 当社は、鎌倉初期の建久六年(1195)源頼朝公によって、玉村町角淵の地に創建奉斎された角淵八幡宮を本宮とする。口碑によれば、頼朝公が新田館より三原へ赴く途次この地に休息し、烏河の地形が鎌倉の由比ヶ浜に似ていたために上野奉行安藤九郎盛長に命じ、鎌倉八幡宮の御分霊を勧請奉安せしめたという。以来、関東管領畠山満家・白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。江戸時代の初めには、関東郡代伊奈備前守忠次が当地一体の新田開発(天狗岩堰開削)に際して、一大事業の成就を神前に祈り、慶長十五年(1610)無事竣工をみるに及び、神助への奉賽と玉村鎮守のため角淵八幡宮本殿を上・下新田境の此地に移築修造した。これが現在の玉村八幡宮である。慶安二年(1649)には幕府より朱印地三十石を寄進され、また歴代の前橋藩主の月詣を得ると共に、数次の修造がなされた。このように武門武将の崇敬を得たばかりではなく、正保三年(1646)の日光例幣使街道開設後は、当地が第一の宿場町として栄えるにつれ、道中安全や開運招福を願う一般庶民の崇敬をも集めることとなり、以来「玉の里の八幡さま」として親しまれる。
また、古来より特殊信仰として、いぬ・い年生れの守り神という戌亥八幡信仰があり、その御神徳は今も尚おおいに発揚されるところである。
本殿  三間社流造高欄銅板葺 永正四年(1507)の造営にして慶長十五年の修造と伝えられ、室町様式と江戸初期様式を併せ持つ建造物として、明治四十一年に国指定特別保護建造物(現在、国指定重要文化財)に指定された。その構造様式中、蟇股・海老虹梁・大瓶束・肘木・斗栱など、時代様式を表すものの中でも蟇股の形や彫刻の意匠は桃山時代を遡るものとして注目される。 昭和十一年の文部省指導の解体修理に際し、従来の檜皮葺屋根を銅板葺に改めた。
弊殿 切妻流造
拝殿 入母屋流造
 両殿の内部板壁八面には各面に唐獅子が描かれ、邪気を祓う八神獣として神殿内の清浄を守護する。
例祭日 十月十六日
宝物  御神号掛軸(後西天皇御宸筆)
    御朱印
    太刀(銘菊一文字) ほか


 参考  蟇股:かえるまた 大瓶束:たいへいづか 斗栱:ますぐみ
雑記  高崎線新町駅の北3.6km、玉村町役場の西0.5kmのところにある。

 境内社には、国魂神社(戦没者を祀る)、古峯神社(石祠、古峯ヶ原さま)、猿田彦大神(石碑、万延元年建立)、稲荷神社(石祠)。石祠は千木・鰹木を具へた立派なものだ。また、「日清戦役記念之標」「日露戦役記念之碑」(明治三十九季十一月建立、との年記)がある。
 境内案内図を、今になって見ると、本社の東に厳島神社がある。何故か気づかず、拝観しなかった。バスの時刻ぎりぎりでも無かったのに、残念な事をした。
 随神門から拝殿までの間は、好く整備され、清掃も行き届き届いてゐる。
 御朱印をいただいた際、元気飴をいただいた。金太郎飴で、文字「玉八」や顔が描かれてゐる。綺麗で、舐めるのがもったいなく、半年経った今も持ってゐる。

 玉村町は、明治の町村制施行時に南玉村、福島村、上飯島村、上之手村、角淵村、下新田村、上新田村、与六分村、斎田村の合併により発足。昭和30年に芝根村と合併、昭和32年上陽(じょうよう)村と合。その後、若干の境界変更があった。面積は25.8平方kmといふから、私の住む厚木市の1/4 くらい。ただ、玉村町には山地は無いので面積だけの単純比較はあまり意味が無い。
 当社の北1kmに利根川、南2.5kmには利根川の支流烏川が流れ概ね町境となってゐる。
 県道142号(平成29年10月指定、旧国道354号。例幣使街道)が東西に通じてゐる。当社参道はこの道から北にのびてゐる。

 本日は、一昨日に続いて高崎・前橋辺りの九社を巡った。当社が一社目。新町駅前から9:35発のバスに乗り、当社参拝後、バス停を10:40発のバスで前橋駅に到着。前橋駅では自転車を借りた。事前の調べはなかなか大変だった。

写真

一の鳥居、下新田と上新田の境目に建てられてゐるといふ。

随神門、慶応元年の建造。

随神門から二の鳥居・拝殿を望む

拝殿

拝殿と本殿、本殿は柿葺

御本殿



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