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安房神社(千葉県館山市大神宮)

参拝日 令和3年10月30日(土)
作成日 令和4年7月24日(日)
追記日 令和6年2月13日(火)
よみ  あわじんじゃ
概要  当社(安房神社)は千葉県館山市大神宮に鎮座する。神武天皇の命で房総南端の開拓を終えた天富命が天太玉命をお祀りし、養老元年(717)に現在地に遷り、天富命も祀られた。かつての社格は、名神大社、官幣大社で、現在は神社庁の別表神社。  
所在地  館山市大神宮589  
  (34度55分20.73秒 139度50分11.71秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  Wikipedia:安房神社
 当社   :HP
祭神  本社(上の宮)
   天太玉命 (あめのふとたまのきこと)
   天比理刀当ス (あめのひりとめのみこと)
 摂社(下の宮)
   天富命 (あめのとみのみこと)
   天忍日命(あめのおしひのみこと)
由緒  名神大 旧官幣大社 別表神社

 頂いた栞には次の様に記されてゐる。
 「古語拾遺」や「先代旧事本紀」といった書物によれば、安房神社の始まりは二六七〇年以上前にさかのぼるという。現在下の官に祀られている天富命は、神武天皇の勅命により四国・阿波徳島の忌部一族を率い肥沃な土地を求めて旅立つこととなり海路黒潮にのり房総南端のこの地に到着した。そして上総・下総に進み麻や穀(かじ)(紙の原料)といった植物を播殖して、その産業地域を広げていつた。開拓を終えた天富命は、無事成し遂げられたのも祖先の御加護によるものだと考え、祖父にあたる天太玉命をお祀りして、祖先の恵みに感謝したのである。
 「安房忌部家系之図」によれば、元正天皇の養老元年(七一七)に現在の場所へと天太玉命を奉斎し、同時に天富命も下の宮に祀ったという。上の宮の御祭神である天太玉命は、天照大神のそば近く重臣として奉仕し、天照大神が天岩戸にお隠れになった時には、中臣氏の祖神・天児屋根命とともに大神の出御のために活躍した神である。また子孫にものを作る技術に長けた神が多くいたことから、産業の総祖神としてその神徳を世に顕わしている。
 現在は安房全域をはじめ上総・下総・関東地方の信仰を集めており、交通安全・厄除開運・家内安全・商売繁盛などを願う人々がこの地を訪れている。

 境内設置の由緒掲示にはつぎの様に記されてゐる
由緒
房総半島の南端神戸郷に坐す旧官幣大社安房神社は、天太玉命を主祭神に天比理刀唐配祀として奉斎し、摂社下の宮には天富命を祀る。
延喜の制には大社に列せられ、名神祭に預る阿波国唯一の由緒深き名社である。
本社の祭神天太玉命は中臣氏の祖神天児屋根命と並んで天照皇大神の側近に奉仕し祭祀を司どられた重要な神に坐します。
天照皇大神が天石窟に御幽居あらせられた時には、天太玉命は天児屋根命と共に大神の出御を祷り遂に再び大御神の天日の如き御威徳を仰ぎ奉られたのである。
安房開拓の神として当社の下の宮に祀らるゝ天冨命は、天太玉命の御孫にあたらせられる。天冨命は四国の阿波国忌部族の一部を割いて関東地方に大移動を起し、最初に占拠されたのが房総半島の南端、即ち現在の安房神社の鎮座地であって茲に本拠を定めて祖神天太玉命の社を立てた後、次第に内地の方に進みこの半島に麻穀を播殖しその産業地域を拡められたのである。
安房神社の御祭神は日本産業の総祖神として崇められ更に現在では家内安全、交通安全守護神、厄除開運等、関東地方随一の神社として信仰が厚い。

雑記  最寄駅は内房線館山駅で、当社から北北東(16°)へ8.5kmの所にある。

 地形の判る写真を撮りたかったが、ぱっとしなくて、撮り損ねた。


 下の写真9の慰霊碑の碑誌等には次の様に刻まれてゐる。
 慰霊碑の碑誌はなかなかの長文で神社の由緒よりも遙かに多くの文字数となってしまった。

 海軍落下傘部隊慰霊碑。花崗岩に刻まれ墨が消えてしまってゐる。雲母が判読を邪魔するので、真に読みづらい。
碑誌
太平洋戦争急を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し十八才より四十五才位迄の精鋭なる将兵二千有余名により編成任務の特質上其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘員魂は茲に練成された  第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日十二日セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦斗降下を敢行更に第三特別陸戦隊は同年二月二十日二十一日チモール島クーパンに戦斗降下を敢行共に占領に成功其の功績の顕著なる事に対し時の聯合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる
爾後大スンダ列島小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為一旦内地に帰還し戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン トラック ナウルの諸島に作戦し特にサイパンの戦斗は惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃え伝えんものと当隊発祥の地ここ舘山に慰霊碑を建立した

  昭和四十八年十一月十日
         元海軍落下傘部隊隊員一同建之

 「館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑」(碑誌は横書、一部の正漢字は、当用の字体に置換えた)
館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑

 過ぐる対戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び かれらは総て全国 管公私立の大学 高等学校より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
 昭和18年10月8日入校式が行なわれ海軍予備学生を特命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を修了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦 対空 化兵の各班に分科しそれぞれ第一線式官としての徹底的専門教育を受けた 同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行なわれ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る全線へ あるいは諸鑑定へ赴任し 激烈な戦列に身を投じた 既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同機を含めて官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
 しかして 戦勢は日を追って壮絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで斃れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに選挙区の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊をなった者は228名に及ぶのである われらはこのことを永久に忘れることはできない
 ここに栄光ある戦没同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神境に一碑を建立するものである
     昭和45年10月10日
  館山海軍砲術学校
  第三期兵科予備学生
 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

 「献辞碑」 碑に向って右横にある。陽鋳されてゐる。
献辞
 昭和十八年十月 ここ安房神社の神域近い南房神戸の海浜に 折からの秋気を潮騒を縫い 若き気鋭の学徒たちが一団また一団と相次いで集った 過ぐる対戦のさ中 再びなき青春を投げうち ペンを剣にかえ祖国の急に馳せ参じ 海軍第三期兵科予備学生として館山海軍砲術学校に入校した 兄らそして我等千四百四十名であった
 折しも祖国の荒廃を賭した戦いの局面は 極めて厳しく推移していた 兄ら そして我らもとより戦いを欲するものではなかった 然しながら祖国はまた いたずらな座視を許さなかったのである
 兄らと我らの選んだ道 それは主戦場海洋正面に戦う海軍に身を投ずることであった
 兄らと我らが相会し 骨肉にも似た同期の友として固く長い絆に結ばれたのも実にこの瞬間であった
 以来光芒二十数星霜 世の様はうつろい 懐かしの兄らいまや亡く 我らのみ再びここに立つ 兄らいま呼べど応えず 我らのみ 今兄らの思慕し片時も忘れることのなかった兄らの父・母・妹君らと共に ひたすら兄らの前に楽しく頭を垂れてひざまずく 想い起せば淡くそして深かった兄らと我らの交情は 今この一瞬にも我らの胸中を鮮烈にえぐる
 懐かしの学舎「館砲」における海軍伝統の教育訓練は折からの猶予なき戦局に応える如く 周到を極めた ある時は早朝より深夜にいたる座学に そしてある時は東砲台 西砲台そしえ館山湾・平佐浦・巴川海岸の術科に 人間の生への執着を断ち切るが如く 時に南国の雪を割き 時に熱砂をけたてて峻烈に続けられた
 翌十九年一月打ち揃って基礎教程を終え 二月術科教程に入り 陸戦・対空・化兵等の専門教程に分属 第一線指揮官を担当する海軍士官としての更に厳しい専門教育が続いた とは言え 安藤学生隊長始め先輩教官の真情こもる配慮と理解のもと 兄らと我らの友情も日増しに深まっていったのである
 いま瞼を閉じて想起すれば ここ佐野・富崎・布良・根本・切通し そして時に館山・白浜の海岸□□頬を輝かし肉親学友そして愛する人々との つかの間の語らいに時を忘れし往時 走馬灯のように脳裏をよぎる
 然しながら戦局の推移はいよいよ厳しく 我らを長く館砲に止めおくくことを許さなかった
 同年四月 そして五月 戦う海軍将校としての 全ての教程を終えた兄らと我らは 直ちに海軍少尉に任官 懐かしの館砲をあとに 北は寒風吹き荒ぶアリューシャン・オホーツクの海から南は熱濤かみ合うソロモン・インド洋に連なる太平洋全域の第一線基地 艦艇に赴任 苛烈な戦列に身を投じたのであった
 征く友 送る友 手もちぎれよと振られる軍帽の中を 兄らそして我らは 或は緊張に頬を締め 或は莞爾と微笑をたたえながら万感ももる校門を後にしたのであった 友よ 亡き友よ それは昨日のことではなかったのか それは数刻前のことではなかったのか 「貴様立派に死ねよ」「貴様絶対に死ぬのだけはよせよ」言葉こそ違えしっかり手を握り合って別れし兄ら そのおもざしは今も眼前に彷彿として浮ぶ 
 想えばそれは兄らとの永劫の離別の一瞬であった 折しも安房神社境内の桜花は爛漫と咲き誇り そして無情の潮風に一ヒラ二ヒラと散っていった 兄らと我らの前線における死斗は続いた しかもなお 戦勢は日を追うて凄絶の度を加え勇戦する友相ついで傷つき相ついで斃れた 我ら兄らの愛せ誌人々と共にありて敢えて言う 戦いとはまさいく凄惨にして悲痛なものであった とりわけ兄らそして我らの任地は絶海の孤島 或は渺たる艦艇 そして孤立無援の決戦場に集中した それは再起を期するに虎口なく艦と命運を共にすべく宿命づけられ 敵との対決と共におのれの死との絶対的直面を終始するほかなき境涯であった
 友よ 亡き友よ サイパン・グアム・テニヤン・ペリリュウ・硫黄島・沖縄に死斗ついに玉砕せる友よ 武蔵・山城・扶桑・羽黒・那智の諸艦と運命を共に散華せる共よ ラホール・ニューギニア・ビアノ・アンボン・モルッカ・スンバ・アンダマン・ニコバル・パラオ・南澳島・舟山島・千島に勇戦散りし友よ フィリッピン・セレベス・ボルネオ・スマトラ・マレー・ビルマ・台湾の決戦に敢斗倒れし友よ 印度洋・内南洋・マリアナ近海・東支那海・黄海・南西諸島方面・内地近辺に水漬く屍と散りし友よ 我らはいま証言する 兄ら凄絶の戦場にありてよく戦えり 兄ら祖国への至誠を尽してよく勇戦せり 兄ら同胞への献身に全てを投げうち その青春と共に雄々しく散れりと
 兄らもとより業としての武人に非ず 苛烈なる戦場に在りても或る時は戦局と祖国の前途を憂い 或る時は戦争を憎み 平和を想いしことであろう その胸中察するに余りあり 然も遂に祖国に殉し全てを捧げてたおる
 その無念いかばかりであろうか「お母さん 恥ずかしいけれども言ってしまおうか 死ぬ前にたったもう一度でよいから お母さんの側で色々と身の回りのことをやって上げたかった」死を前にしてある友はこう書き残した
 兄ら大義に殉ず 然しながら兄らの肉親 愛する人々への絶ち難き真情の絆 それはどんなにか深かったことであろうか いま我ら兄らの愛せし人々と共に兄らの霊前にぬかづき ただ兄らの胸中を想い痛恨の涙にくれるのみである
 昭和二十年八月長い戦いは終わり ともあれ祖国に平和は蘇った 我らは縁なす故山に□つた 兄らが血と青春のすべてを賭して献身せる祖国は焦土の中から生色を取り戻した だが我らと兄らを愛せるすべての人々の祈りもはかなく 兄らついに永遠に帰らず 卒業・任官総数千二百七名 うち実に兄ら二百二十九名の友は 或は北海 或は南冥の果てに散り ついに永遠に帰ることはなかったのである
 星霜二十数年 兄らが最後の一瞬まで念じし祖国は 幾多の苦難を乗越え 歴史にも稀な復興・発展を遂□□長□の平和を謳歌 むしろ今や安逸と放縦の気流る 兄らの全てを捧げし戦いと犠牲の想い出も遠く ときに兄らの献身を語ることの少なきを嘆く世相となる
 兄らと我らの青春の哀歓こもるここ館砲跡界隈もその様相を一変した 然しながら我らは永劫に忘れることはできない この祖国と同胞のまどらかな平和 未曾有の発展のかげに 兄らの限りなき 犠牲のあったことを そして兄らの敬愛せし父・母・兄・妹君らはらからの乾くことなく尽きることなき涙のあることを
 昭和二十年 日本人男子の平均寿命は僅かに二十三歳九ヵ月であったと伝える 兄ら恨み□□□□そのままに兄
 しかるに我らのみ生きながらえ この軽佻浮薄の世を泳ぎ兄らに対し恥多き戦後の人生を□□ そして今漸く頭に霜多く人生の半を過ぎる 我ら残りし者 いま兄らと相対して兄らの霊前に誓う 我ら兄らの戦いに臨みし至情 その同胞への無限の献身 そしてまた兄らの念願してやまなかった 祖国の安泰と戦いなき永遠の平和の尊さ それを長く同胞に語り伝えることを
 友よ 亡き友よ 兄らはいま何ごとも語らない 然しながら 兄らはまた何ごとかを語り 我らの生きる限り永遠に 我らの胸を打つ 我ら館砲同期の生存者一同 兄らの敬愛せる人々と共に集い いまは□□兄らを思ひ かつて共に散策せし この神境に一碑を建立し 兄らの献身と犠牲を顕わす芳名を刻印し 兄らの霊安かれとここらから祈る
 願わくは 兄ら来たり承よ
    昭和四十五年十月十日
    平成十□年十月再献
  館山海軍砲術学校     
第三期兵科予備学生    
 同期生代表 多田 実  
   同期生 青山壽雄 謹書


 この日は、新宿駅発の特急「新宿さざなみ1号」に乗って2時間16分、終点館山駅に10:06着。
 新宿さざなみ1号は休日運転で3割引きで利用出来た。沢山の特急が走ってゐたと記憶してゐたが、それはアクアライン開通前の事で、現在は高速バスに押されて特急は風前の灯らしい。自分自身も横浜-木更津間のバスを利用しようかと考へてゐたくらゐだ。
 館山駅からは、駅西口の観光案内所で新車と思われる電動自転車を借りて当社にやってきた。道程10.6km、46分で行けたが、汗をかいたし疲れた。
 当社参拝後、軽食をかねて、境内の茶屋で休まうとしたが、残念。コロナ禍のため休業中だった。
 このあと、洲宮神社、州崎神社、鶴谷八幡宮を巡った。総走行距離38kmもあったが、電動だから走れた。
 
 それるが、自転車は、空気圧が足りないことが多い。今回は、不足気味ていどで、そんなに悪くはなかった。でも、少しでも楽に走りたい思ひで、空気入れを借りた。タイヤは太めで走行抵抗が大きいが安定性は良かった。海岸をサイクリングするのもよささう。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 社号標は「官幣大社安房神社」

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 社殿 正面
 鳥居をくぐってまっすぐ進んで、右手にある。

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿 斜め前

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 社殿(御本殿)

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 下の宮 参道
 標柱は「延喜式内 當國惣社 勲一等安房座太神宮 御鎮座」、背面に「官幣大社安房神社」とある。側面にも文字があるやうだが読取れなかった。
 本社に向って右手(北)にある

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 下の宮 社殿

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 境内社 厳島社
 後方には、本社社殿が写ってゐる。右手には「日露戰役記念碑」が建ってゐる

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 境内社 琴平社
 向って右手に「兼務社遙拝所」
 本社と下の宮の間にある

写真9 写真9 拡大 (1280×960)
 慰霊碑 多くの名が刻まれてゐる。参道を進んできて突き当り辺りにある。右手には本社がある。
 向って右は「海軍落下傘部隊慰霊碑」。
 向って左は「館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑」

御朱印
御朱印 拡大 (591×960)



出典・脚注
  1.  ─

改訂記録
  • 令和06.02.13 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。概要欄作成と記入。
  • 令和04.08.20 白地図の東西・南北範囲の誤記(290km×270km)を訂正

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