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鶴谷八幡宮(千葉県館山市八幡)

参拝日 令和3年10月30日(土)
作成日 令和4年8月29日(月)
追記日2 令和6年2月13日(火)
よみ   つるがやはちまんぐう
概要  当社(鶴谷八幡宮)は千葉県館山市八幡に鎮座する。平安時代初期に安房国総社として創建された。旧 社格は県社。創立1000年の昭和51年(1976)に鶴谷八幡宮と改称した。  
所在地  館山市八幡(やわた)68  
  (35度0分18.75秒 139度52分0.11秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  Wikipedia:鶴谷八幡宮
祭神  品陀和気命(応神天皇)
 帯中津彦命(仲哀天皇)
 息長帯姫命(神功皇后)
由緒  安房国総社 元 県社
 境内には由緒掲示が見当らなかった。

 明治神社誌料(明治45年)には次の様に載ってゐる。(1)
○千葉県安房国安房郡北条町大字八幡
   郷社  八幡神社(ヤハタノ--)
 祭神 帯中津日子命(タラシナカツヒコノ--)
    品陀和気命(ホンダワケノ--)
    息長帯日売命(オキナガタラシヒメノ--)

創建は伝説に拠れば、元正天皇養老元丁巳年二月、郡司紀伴人の勧請する所なりと云ふ、翌二年郡司自ら幣帛を捧げ祭祀の式を定む、時に国内の諸社当社に属し、安房神社其他著名の神社八社の神輿当社に会し神事あり、今に革めずと社伝に見えたり、御神体は御神鏡に坐ます、旧と平群郡東国府村の内に在り、府内守護の社にして、総社と号す。東国府村は今の府中村是なり、元八幡の古跡存し、小社並に往古所要の神供水の旧井今尚存す、按するに安房国志に云、「鶴谷八幡神社は八幡村字宮谷にあり、社伝に往古豊前国宇佐太神を奉遷し社殿を国府に建つと、平群府中村今猶古址を存す云々」又大日本地名辞書云、「北条の北なる湊川の辺に在り、諸州の例を推すに、「謂ゆる府中八幡にして後世此地に転徒し、即鶴谷の号ある者とす、西面して鏡浦に対し、江際へ六町」とあり、後柏原天皇永正五年九月里見義通当社を再建す、爾後世々神領を付し社伝を修め、且つ土地及幣を奉る、後徳川氏関東を領するに及び、朱印百七十一石余を寄進す、御朱印写に云く、
「八幡宮領、房州安房郡八幡村之内百七拾壱石五斗之事、任寛永十三年十一月九日先判之旨、永不可有相違者也、仍如件、寛文五年七月十一日」
と、明治六年九月、郷社に列す。
社殿は本殿及拝殿、其壮麗、官幣大社安房神社も亦遠く三舎を避く可しと、境内は千二百六十九坪、(官有地第一種)松柏鬱蒼として社殿を囲み、幽□高潔□□を留めず、明治四十一年内務省甲第一0一号を以て上地林実測反別一町二反十三歩を境内へ編入を許可せられ益々風致備れり。
境内社 若宮神社(ワカミヤノ--) 高良(カハラノ--) 西宮神社(ニシノミヤノ--) 武持神社(タケモチノ--)
例祭 九月十五日 (以下略)
  註  郷社:県社となったのは昭和15年
     革めず:あらた-めず
     平群郡:へぐりぐん。奈良県(大和国)にあった郡

 境内に建てられてゐる「鶴谷八幡神社創立一千年式年大祭奉祝の記」碑(昭和五十一年)には、次の様に刻まれてゐる。 
昭和五十年は天皇陛下御即位五十年慶祝の佳き年 翌年秋は恰も我が鶴谷八幡神社創立の一千年を祝う記念すべき年に當れり 是を以て酒井宮司は責任役員総代一同と相謀り式年大祭斎行を決す 先ず奉賛会を結成し半澤会長始め役員を選出し着々と計画は進み地元氏子と広く関東一円に亘る崇敬者六千余名の奉賛金六千萬円に上りぬ かくて大祭記念事業たる修築復興の工を起し享保五年以来二百五十年を経し本殿の修築を始め出祭神社仮殿の修築摂社若宮八幡神社五十年振りの復興更に三芳村府中に鎮座の元八幡社殿の修築その他に参道制札等と境内の整備は之に係る皆人の献身的努力にて見事に完成し御社頭全く面目を一新し神威弥高く仰がる かくて待望の昭和五十一年九月十三日より十六日まで往古の安房國総社の格式伝う國司祭さながらに式年大祭並びに記念式典の儀を盛大厳粛に又心籠る数々の奉祝行事も館山市観光協会或は姉妹都市山梨県石和町等の絶大なる協賛により賑わいを極む 此の神人和楽の盛上りは天地の神々にも通じ連日快晴に恵まれ四方八方よりの参詣は神域の内外に満ち溢れ諸行事芽出度く完了□実に□ヶ浦清く明るき心もて千代に八千代と日の本の國の弥栄祈りつつ敬神愛郷協心努力諸共に家の業に勤しみ励みて榮えゆく鶴谷八幡の神の御氏子崇敬者達に幸あり と言祝ぎ白す
昭和五十一年九月十六日
明治神宮権禰宜高澤信一郎謹識
雑記  最寄駅は、当社から北北東(22°)へ1.2kmのところにある。

 本日の参拝は当社が最後。

 『通称「やわたのはちまんさま」と呼ばれていて、安房国司祭(やわたんまち)が開催される神社として』親しまれてゐる神社といふ。(2)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 社号標には「安房国総社 鶴谷八幡宮」と刻まれてゐる
 忠霊塔(写真10参照)が鳥居と社号標の間に見えてゐる

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 二の鳥居

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿(正面)と狛犬等

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿(正面)
 向って左側にある小さな建物は、境内社の若宮八幡神社。祭神は大雀命(おほさざきのみこと)仁徳天皇。

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 社殿(斜め)

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 社殿(側面)

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 向拝の彫刻
 安房を代表する彫物大工「初代後藤義光」の彫刻

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 向拝天井の彫刻
 「百態の龍」と呼ばれ、館山市指定文化財
 拝殿向拝の天井一面に施された龍の彫刻は「百態の龍」と呼ばれ、初代後藤義光の慶応二年(1866年)52歳の時の作品で、初代義光の代表作です。 「百態の龍」は義光、江戸の後藤豊次郎とその門人との合作とされ、鏡天井の中央の大きな龍と五十五龍とで構成されています。(2)

写真9 写真9 拡大 (1280×960)
 安房神社遥拝所

写真10 写真10 拡大 (1280×960)
 忠霊塔
 塔には「館山市大東亞、日清、日露戰歿者氏名」が地区別に刻まれてゐる。
忠霊塔建設誌
終戰以来十有余年世を挙げて祖国の再建に邁進しつゝある秋 身を挺して平和の礎となられた英霊に対する 市民の感謝の念と遺族一同の追慕の情いよいよ高まりかくも壮美な忠霊塔の建設となつた  茲にいささかその行程を記して 永久に世界平和を招来するの指針とするものである
昭和三十五年 三月 九日 館山市遺族会忠霊塔建設委員会設置
同 三十五年十一月二十九日 同遺族会は遺族の拠出にかゝる金壱百万円を忠霊塔建設基金の一部として市に寄付
同 三十六年十二月十九日 塔建設の敷地を當八幡神社境内に決定
同 三十七年三月二十六日 館山市議会は市長田村利男氏の提案により忠霊塔建設費金弐百五拾弐万円を満場一致可決
同 三十七年九月三十日 塔建設の工事を茨城県笠間市中野組石材工業株式会社と契約
基礎工事は市内渡辺工務店施工
同 三十七年十月二十五日 地鎮祭執行
同 三十八年一月七日 建設工事竣功
同 三十八年三月二十日 地元八幡 湊両地区民の奉仕並びに篤志家の厚意により付帶設備一段と整備
同 三十八年三月三十日 除幕式執行
式後塔前広場にて招魂祭挙行
昭和三十八年三月三十日 館山遺族会誌之
       館山市遺族会会長    吉田十郎
       同副会長市議会議員   鈴木市藏
       館山遺族会副会長    山口房治
       同           秋山萬次
       同           小栗庄治
       同           飯田 忠
       同県世知委員会各地区代表綾部國平
    所謂旧字体表記は、碑の表記に従った。

写真11 写真11 拡大 (1280×960)
 写真の右から
 「日露戦争記念碑 元帥大山巌書」、側面に「安房郡出征軍人氏名詳細於各町村分立記念碑」、背面に「大正十五年六月以郡内四十三町村醵金復旧之 安房郡長斉藤助昇」とある。

中央は「征清記念之碑」

左は「鵞堂小野先生之碑」。小野鵞堂は明治大正を代表する書家。昭和九年十一月建立。ウィキペディアにも項(小野鵞堂)があった。碑文は漢字仮名交じり文で行書。書家と知って納得。碑面に汚れは無く容易に読める。

御朱印
御朱印 拡大 (647×960)
 御朱印


出典・脚注
  1. 『府県郷社明治神社誌料』上巻 明治神社誌料編纂所編 明治45年(1912) 千葉県之部 p.101-102
  2. 令和4年8月27日閲覧 房総タウン.com  鶴谷八幡宮 関東の三鶴八幡  

改訂記録
  • 令和06.02.13 (1)ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。(2)概要欄作成と記入。
  • 令和04.10.29 御朱印掲載(掲載漏れのため)

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