写真3 拡大 (1280×960)
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写真4 拡大 (1280×960)
社殿(正面)
向って左側にある小さな建物は、境内社の若宮八幡神社。祭神は大雀命(おほさざきのみこと)仁徳天皇。
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写真5 拡大 (1280×960)
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写真6 拡大 (1280×960)
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写真7 拡大 (1280×960)
向拝の彫刻
安房を代表する彫物大工「初代後藤義光」の彫刻
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写真8 拡大 (1280×960)
向拝天井の彫刻
「百態の龍」と呼ばれ、館山市指定文化財
拝殿向拝の天井一面に施された龍の彫刻は「百態の龍」と呼ばれ、初代後藤義光の慶応二年(1866年)52歳の時の作品で、初代義光の代表作です。 「百態の龍」は義光、江戸の後藤豊次郎とその門人との合作とされ、鏡天井の中央の大きな龍と五十五龍とで構成されています。(2)
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写真9 拡大 (1280×960)
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写真10 拡大 (1280×960)
忠霊塔
塔には「館山市大東亞、日清、日露戰歿者氏名」が地区別に刻まれてゐる。
忠霊塔建設誌
終戰以来十有余年世を挙げて祖国の再建に邁進しつゝある秋 身を挺して平和の礎となられた英霊に対する 市民の感謝の念と遺族一同の追慕の情いよいよ高まりかくも壮美な忠霊塔の建設となつた 茲にいささかその行程を記して 永久に世界平和を招来するの指針とするものである
記
昭和三十五年 三月 九日
| 館山市遺族会忠霊塔建設委員会設置
| 同 三十五年十一月二十九日
| 同遺族会は遺族の拠出にかゝる金壱百万円を忠霊塔建設基金の一部として市に寄付
| 同 三十六年十二月十九日
| 塔建設の敷地を當八幡神社境内に決定
| 同 三十七年三月二十六日
| 館山市議会は市長田村利男氏の提案により忠霊塔建設費金弐百五拾弐万円を満場一致可決
| 同 三十七年九月三十日
| 塔建設の工事を茨城県笠間市中野組石材工業株式会社と契約 基礎工事は市内渡辺工務店施工
| 同 三十七年十月二十五日
| 地鎮祭執行
| 同 三十八年一月七日
| 建設工事竣功
| 同 三十八年三月二十日
| 地元八幡 湊両地区民の奉仕並びに篤志家の厚意により付帶設備一段と整備
| 同 三十八年三月三十日
| 除幕式執行 式後塔前広場にて招魂祭挙行
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昭和三十八年三月三十日 館山遺族会誌之
館山市遺族会会長 吉田十郎
同副会長市議会議員 鈴木市藏
館山遺族会副会長 山口房治
同 秋山萬次
同 小栗庄治
同 飯田 忠
同県世知委員会各地区代表綾部國平
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所謂旧字体表記は、碑の表記に従った。
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写真11 拡大 (1280×960)
写真の右から
「日露戦争記念碑 元帥大山巌書」、側面に「安房郡出征軍人氏名詳細於各町村分立記念碑」、背面に「大正十五年六月以郡内四十三町村醵金復旧之 安房郡長斉藤助昇」とある。
中央は「征清記念之碑」
左は「鵞堂小野先生之碑」。小野鵞堂は明治大正を代表する書家。昭和九年十一月建立。ウィキペディアにも項(小野鵞堂)があった。碑文は漢字仮名交じり文で行書。書家と知って納得。碑面に汚れは無く容易に読める。
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御朱印 拡大 (647×960)
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出典・脚注
- 『府県郷社明治神社誌料』上巻 明治神社誌料編纂所編 明治45年(1912) 千葉県之部 p.101-102
- 令和4年8月27日閲覧 房総タウン.com 鶴谷八幡宮 関東の三鶴八幡
改訂記録
- 令和06.02.13 (1)ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。(2)概要欄作成と記入。
- 令和04.10.29 御朱印掲載(掲載漏れのため)
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