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櫻田神社(東京都港区西麻布)

作成日 平成23年2月12日
追記日 ────────
よみ  さくらだ じんじゃ
所在地  東京都港区西麻布三丁目2−17(北緯35度39分32秒、東経139度43分38秒)
HP  東京都神社庁 都内神社の紹介 櫻田神社
祭神  豊宇迦能売神(とようかのうめかみ)
由緒  参拝時に由緒書をいただいたので、そこから転記する。
櫻田神社
(中略)
御由緒
 今を遡ること八百年余、治承四年(1180)武蔵国の奉行渋谷庄司重国が、霞山(現在の溜池から霞ヶ関にかけての小高くなった一帯) に焼狩りをしようとした前夜、其の夢枕にご祭神のお使いの白狐が現れ、狩りを行えば必ずや祟りがあるであろうと告げた。重国は これは正夢と、直ちに狩りを中止し、当時東国に力を持っていた源頼朝公に事の次第を報告したところ、同年十一月霞山稲荷明神として 現在の霞ヶ関桜田門外に社を造り祭る様命を下した。
 後の文治五年(1189)秋、頼朝公は、奥州平討奉賽の祭を行い、神供料として三十貫の田地を寄進され、御神田と一般の田地との境界に 桜の木を植えられた。この桜が、年毎に咲き誇り、人々が御神田を「桜田」と讃え、附近住民もその住地を桜田村と称するようになった。尚、 この桜は当社御鎮座にあたり「内桜田」現在の皇居吹き上げの庭に移されたと伝えられる。
 時は下り、文明年間(1461─86)太田道灌公は、当社の縁起を伝え聞き、直ちに神殿を改修再興され、地領の守護神として崇敬された。 また当時道灌公は、太刀甲冑等を寄進され永く当社の御神宝として伝えられたが、「青山火事」により焼失した。当社は永く霞が関に御鎮座に なられたが、徳川入国以来、諸大名屋敷が出来るにつれ寛永元年(1624)、現在の地に御鎮座せられた。
 当社は、幕末から戦前にかけては、新撰組の沖田聡司や、明治の名将乃木希典将軍が、初参りに参詣した神社として知られ、将軍が当日着用 された産着は、現在赤坂八丁目にご鎮座になる、乃木神社において社宝として保存されている(非公開)。 また戦前は、硫黄島にて玉砕された旧男爵、西竹一帝国陸軍大佐も当時氏子であった。戦前までの当社大祭には、二階屋を雄に超す背丈の 鳳賛(昭和二十年空襲による戦火にて焼失)を、現在の新橋内幸町交差点付近(当時の氏子地)に設けられたお旅所まで牛に引かせ、丸二日 を掛けて当社とその間を往復する盛大な神幸祭が斎行された。又、境内に櫓を立てての盆踊の輪が夜更けまで続けられたが、その後の都市化 や氏子減少により衰退してしまった。その後昭和五十年、先代宮司や氏子悲願であった社殿改築も無事終了し、現在の装いとなった。

氏子地
 当社氏子区域は、港区西麻布一丁目、二〜四丁目の一部、元麻布三丁目の一部、六本木六〜七丁目の一部(現在新橋一帯芝桜田の地は、旧 桜田村の名残で、現在もその一部が当社氏子となっている。又、この地にある「日本中央競馬会」正門入り口にも当社ご由緒書を掲げ、 町神輿山車等と共に展示してある。)以上である。
参拝日 平成22年5月22日(土)
雑記  この日は、港区内の四社を参拝した。当社が四社目である。芝大神宮をでて、都営地下鉄の大門駅から乗車し、 六本木駅で下車。六本木ヒルズの北から西側縁をとほり参道前にでた。
 六本木ヒルズからはすぐ近くなのだが、ひっそりしてゐる印象を受ける。低層ビルに挟まれた参道を行く。両側に建物があり、上は樹木の 枝葉が覆ひ、薄暗い。開発事業があると、近くの神社には事業者から寄進されることがよくあるが、新しい狛犬があるわけでもない。なほさら、 別な世界にやってきた感を強くした。
 事前に、何の知識もなく訪れたので、御朱印を頂いた際に伺ったところ由緒書をいただき、判らないことがあれば電話してくださいと いふ。ありがたうございます。
 写真は、逆光となりうまくとれなかった。


平成22年5月22日撮影

平成22年5月22日撮影


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