よみ
| とうごう じんじゃ
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所在地
| 渋谷区神宮前1-5-3(北緯35度40分18秒、東経139度42分21秒)
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HP
| 東京都神社庁 都内神社のご紹介 東郷神社
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祭神
| 東郷平八郎命(とうごうへいはちろうのみこと)
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由緒
| 境内の掲示板によると(縦書)
東 郷 神 社
鎮座地 東京都渋谷区神宮前一丁目五番地三号
祭神 東郷平八郎 命
例祭日 五月二十八日
御社殿 神明造り七十六坪
境内地 八千四百余坪(二七、七二〇平方メートル)
由 緒 沿 革
東郷平八郎命は弘化四年(1847年)薩摩藩士東郷吉右衛門の四子として鹿児島県加治屋町で生まれ昭和九年(1934年)五月三十日八十八歳で
東京都麹町三番町で薨去されました
明治四年(1871年)二十四歳のとき英国留学七年間海軍士官としての修行をつまれました 以来軍務に精励し同三十七、八年(1904、5年)の
日露戦役に連合艦隊司令長官として艦隊を指揮し特に同三十八年五月二十七、八日の日本海海戦で露国のバルチック艦隊を迎えて旗艦三笠にZ旗を
掲げてこれを打破り世界海戦史上名高い完全勝利をなし遂げ国難を救ったことは有名であります 大正三年(1914年)東宮御所御学問所総裁として
時の皇太子天皇教育の重大な責任を果され明治、大正、昭和と三朝に至誠一貫臣節を全うされました その功績に対し元帥海軍大将従一位大勲位
功一級侯爵の栄誉が贈られ高い人格と陰影無きまごころの人として日本だけでなく世界の人々からも「アドミラル大東郷」として尊敬されるように
なりました 昭和九年九月財団方針東郷元帥記念会が設立され全国民崇敬者の協賛により同十五年五月(1940年)創建鎮座祭を執行し府社となり
別格官幣社列格寸前の同二十年(1945年)五月戦災により一切炎上しました 戦後は仮殿に奉斎 同三十九年(1964年)の祭神三十年祭を目標として
同三十三年五月復興奉賛会の設立となり全国数傾斜の絶大なる協賛を得て御社殿復興同三十九年五月二十七日御遷座祭を執行し二十八日竣工奉祝祭
並に三十年祭が盛大に斎行されました 同五十九年(1984年)は祭神の五十年祭並に復興に十年記念祭に相当するので数年を費やして神符授与所、
透塀、西参道灯籠四基、北参道鳥居再建、池の改修、井戸新さく、旧東郷邸より移築の土蔵の再建等境内整備を進め同五十九年五月に五十年式年
例大祭・次いで命日祭・五十年墓前祭(於多磨霊園)が厳修されました
平成二年(1990年)には御鎮座五十年記念に当り崇敬者各位の據金によって御鎮座五十年記念行事として御社殿改修、神池の整備、社務所・
和楽殿の改修・新築、記念出版等を完遂しました。
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参拝日
| 平成22年2月9日(*)
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雑記
| 原宿駅から近くにある。原宿といふと、明治神宮を連想してしまふが、方向は反対に向ふ。竹下通りといふテレビなどではよく話題になる
通りの一部を通って鳥居まで来た。
「潜水艦殉国碑」「海軍特年兵之碑」がある。
特年兵の碑の背面には碑文が刻まれてゐる。文面は忘れてしまったが、感情は覚へてゐる。自分の十代、今の若者の十代、竹下通りの賑ひ振り、
先人の尊さ、等々考へた。十四歳の勇士、五千余名が海にその命を散らした。さうやって、国の品位を保ってきたのだな。然し、自分の生きてきた50年、
国の品位に心した人は大勢ゐたのだらうが、学校での教育を受けてゐた頃は自分には届いてこなかった。社会に出て、随分してから新聞テレビ
の論調に疑問を抱くやうになって、ようやく耳目に届き始めた。今の若い人たちにはもっと早くから知ってもらいたい。
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